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tempting candy

Twinkle Stariumで無料配布した月子3年時のハロウィン話。

 

 

「Trick or Treat!」
「はい、どうぞ」
 手に持った篭の中から小さな包みを取り、毛むくじゃらの着ぐるみに手渡す。
 今夜だけで何度やったかわからないやり取りだけれど、訪ねてくる相手は千差万別。取って付けたような被り物から、趣向を凝らした特殊メイクまで、見てい て飽きることはない。
 今日は星月学園のハロウィンパーティー。生徒会主催行事なので、裏方としてやることは多い。
 でも三回目ともなると慣れたもので、合間を見てはあちこちを歩いて回り、さっきみたいにお菓子を配った。
 ちなみに、私の仮装は黒猫。去年が魔女だったから、今年はその使い魔ってことにした。
 といっても、色々と忙しくて今年の衣装はわりと手抜きだったりする。黒のワンピースに黒の靴とストッキングを合わせて、そこに市販の猫耳カチューシャと 尻尾を付けただけ。
 一応、事前に錫也と哉太に見てもらって、おかしくはない、という評価はもらってるんだけど。
(えっと……良かった、まだ平気そう)
 腕に提げた篭を探って、お菓子の包みが残っているのを確認する。
 今宵のお前を守る、聖なるアイテムを授けよう――なんて、お爺さんの魔法使いに扮した錫也から受け取ったものだ。中身はクッキーらしい。
(余ったら生徒会のみんなで分けようかな)
 そんなことを考えながら、決まり文句をかけてきた包帯まみれの人へ包みを渡す。
「……あ」
 そうして歩いているうちに、人通りが少ない所に来てしまったようだった。
 周囲には仮装に疲れたのか壁や柵によりかかって談笑しているグループがいるだけで、立っているのは自分しかいない。
(戻ろう)
 そう思って踵を返す――と。
 視界いっぱいに、がやがやとお化けたちがひしめく屋上庭園が映る。
 みんな楽しそうにしているその様を見て、自然と再生される記憶があった。
(去年は……先生達と星見酒をしたんだよね)
 酔っぱらった陽日先生と、眠ってしまった星月先生。そして、こそこそと内緒話をしてきた郁。
 今日は日曜日。
 できることなら郁に会いたかったけれど、さすがに学校行事を抜け出していくわけにもいかない。
「……」
 いつまでも立ち止まっていてもしょうがない。
 私は止めてしまった足を動かして、前へと進めた。ただし、気持ち歩幅を狭めて。
 楽しそうなあの中には、一番会いたい人が存在しない――そのことが、歩く速度をゆっくりと落としていく。
(あ……そうだ。終わったらメールしよう)
 この分ならお菓子は余るだろうから、生徒会のみんなに分ける前に写真に撮って、メールに添付する。
(それで本文は……「お菓子をあげるからいたずらは禁止」とか。うん、そうしよう)
 とっておきのいたずらを思いついた気がして、沈みかけていた気持ちが浮上した。
 最後まで頑張るぞと気合いを入れ直し、大股で歩きだそうとしたところで、
「Trick or Treat.」
 背後から決まり文句が聞こえた。
「あ、はいっ、これを――」
 お菓子を取り出しながら、どこかで聞いたことのある声だなあと思いつつ振り返ると、そこには。
 ひどく見覚えのある吸血鬼が立っていた。
「こんばんは、可愛らしい黒猫さん。じゃあ、これは有難くいただこうかな」
 ぱちぱち、と何度まばたきをしても、目の前の怪物は消えたりしなかった。
「え、なん……何で」
 聞きながら、そっと爪を立てるようにして片手を握り込んでみる。それなりに痛い。
 起きたまま夢を見ているわけじゃないようだった。
「何でって、仕方ないでしょ。仮装用の衣装なんて他に持ってないし」
「っそ、そういうことじゃなくて! ……どうして、ここにいるの?」
 一番聞きたかったことを口にすると、まるで記憶から抜け出してきたようなその吸血鬼は、あからさまに不機嫌そうな顔をした。
「何? 僕が会いに来たのが嫌だった?」
「そんなこと言ってない! 郁に会えて、嬉しい。……さっき、去年のこと思い出してて、……郁に、会いたいなって、思ってたから……」
 言いながら、どんどんと喉がつまって苦しくなった。自然と俯いてしまって、声も小さくなる。
「……にゃーって鳴く猫は知ってるけど、本当に泣き出す猫は初めて見たな」
 手袋越しの手が頬に触れて、ゆるく上向かされる。
「な、いてなんか」
「目が赤いけど」
「っ……こ、こんな暗いのにわかるわけないよ」
「わかるよ」
 郁が手袋の中指をくわえて、手袋を抜き取る。
 素手になった右手でもう一度頬が捉えられて、続いて親指が目元をくすぐった。
「……ほら、濡れてる。素直じゃないな、黒猫さんは」
「っ……」
「まあ、黒猫ってワガママなイメージがあるしね。……とりあえず、このへんで勘弁してあげるよ」
 郁は手を離すと、一歩、二歩、と後ろに下がる。
 そして、まじまじと私の全身を眺め始めた。
「にしても、黒猫ってアイデアはまあいいとして……ちょっとサービスしすぎじゃないの」
「え? サービスって」
 何のことかわからず問い返すと、郁は大袈裟にため息をついた。
「まあいいや。今更言っても遅いし。それは後できっちりやるとして……」
 ぶつぶつと何か呟くと、郁は一歩前に出た。
「ところで、黒猫さん」
「何?」
「――Trick or Treat.」
 にっこりと微笑みながら、郁は今夜の決まり文句を繰り返した。
 その口元に貼り付いた笑みには、見覚えがあって――
「え。さっき渡したよね? あ……もっと欲しいってこと? うん、余ってるからいいけど」
「違うよ」
 コツ、と。
 篭を漁っている隙に、残りの一歩が詰められていた。
「……郁?」
「お菓子をくれなきゃいたずらするよ?」
「え、だから、これ」
 段々と近づいてくる顔に、思わず一歩後ろに下がる。
 でもすぐに、開いた距離が縮められる。
「そうじゃないよ。ねえ、月子。お菓子って甘いよね?」
「う、うん」
「だから僕は、月子が欲しいって言ってるんだけど?」
「……は?」
 さっきの言動といい、今夜の郁はわけがわからない。
 そういえば、何でここにいるのかっていう理由もちゃんと聞けてない。
「郁? あの、言ってることがよくわからないんだけど……」
「わからないの? 仕方ないなあ」
 ぐ、と両肩が引き寄せられたかと思うと、すぐ目の前に郁の顔があった。
 今にも触れそうな唇が、そっと囁く。
「――月子、甘いでしょ?」

(……そうだ)

 あれは、郁がいたずらを思いついた時の笑みだ。

 そう気付いたところで、時既に遅し。
 魔女の遣い魔は吸血鬼の吸血によって、その僕となってしまったのでした――



***



 部屋の鍵を開けてドアノブに手をかけたところで、ものすごく重要なことに気が付いた。
 私はがっちりドアノブを握ったまま後ろを振り返る。
「っち、ちょっと、待ってて」
「別にいいけど。何、見られて困るものでもあるの?」
 にやにやした笑みに見下ろされて、私の頭に血がのぼる。
 でも、ここで変に反応するのは子供っぽい気がして、私は努めて冷静に言い返した。
「……あるから言ってるの。いいって言うまで、待ってて」
 わかったよ、という返事を確認してから、薄く開けたドアから自室へ滑り込む。
「……うわあ」
 室内は結構な惨状になっていた。
 うっかり仮装衣装を部屋に忘れてしまった私は、準備の途中で抜け出して一度ここへ戻ってきたのだ。速度優先で着替えを終えて、脱ぎ散らかした諸々はその ままにして部屋を飛び出した。そのときは、戻ってきてから片付ければいいや、どうせ誰も見てないんだし――と高を括っていたわけで。
(まさか郁が来てくれるなんて思ってもなかったし……)
 散らかった服を拾い集める。畳んでしまっている時間はない――ので、
「えいっ」
 思い切ってロフト部分に放り投げた。
 ついでに、散らかり気味の生徒会関連の書類や読みかけの本もぽいぽいっと投げ入れて、その上を毛布で覆って、完成。
 ロフトの梯子から降りて、最後にもう一度部屋を見渡す。
(……うん、平気だよね)
 ロフト部分からちらっと見える毛布がやや不自然だけど、これぐらいならいいよね?
(ここで、ちょっと話をするだけなんだし……)
 ハロウィンパーティーと、その片付けが終わった後。
 郁から、終バスが出てしまったから今夜は職員寮に泊まっていくよと聞いて、なら少しだけ話がしたいなと思って。
 それは僕も賛成、と郁にしては珍しく意地悪も冗談もなく同意してくれて、嬉しい反面妙にドキドキして。
 でも寮のロビーとかで話すのはちょっと恥ずかしいかも、と漏らしたら、じゃあ月子の部屋にしようか、と言われて。
(思わずうん、って答えちゃったけど……よく考えたら、郁が泊まる部屋の方でも良かったような)
 とはいえ、今更どうしようもないのだけれど。
「……お待たせしました」
 私は部屋のドアを開けて、待たせていた郁を招き入れた。
「お待たせされました。じゃあ遠慮なくお邪魔します。へえ、片付いてるね」
 そう言いながら、郁の視線はロフトの方に固定されている。
「そっちは見ないで!」
「はいはい。ここ、座ってもいい?」
 ぽん、と郁の手が叩いたのは――私のベッドだった。
「……う、うん」
(ほ、他に座るところもないし、床に座ろうにもクッション一つしかないし……)
 そう頭の中で言い訳して、あっさりベッドに腰掛けてしまった郁の隣へ腰を下ろす。
「さて、と。あまり長居もできないし、やるべきことを先にやっちゃおうか」
「え」
 私と同じでまだ仮装したままの郁から、思わせぶりな発言と流し目を受け、私の身体がびしりと硬直した。
 吸血鬼には相手を魅了する能力がある、とかなんとか、前に見た映画だか漫画だかの知識が脳裏をかすめた。
「何? 今何を考えたのかな、子猫ちゃんは」
「っな、何も」
「残念だけど、月子が期待するようなことは何もないよ。ごめんね」
「っき、期待とか、何もしてない!」
 反射的に叫ぶ。
 一拍おいて、郁が耐えきれないとばかりに吹き出した。
(……やっちゃった)
 過剰反応はお子様の証拠。
 最近は郁のこういう冗談も受け流せるようになってきていたのに。
(といっても、電話での話だけど……)
 やっぱり本人を目の前にすると――特に、あのレンズ越しの瞳に見つめられると――どうしても緊張してしまう。
 おまけに今は、職員寮の一角とはいえ、密室に二人きりという状況なのだ。
 緊張しない方がおかしいと思う。
「じゃあ、本題に入ろうか」
 郁の手がにゅっと伸びてくる。
 それは最初、頬を掴むのかと思わせておいて――思わず構えてしまった私を無視し、私の頭を触った。
 正確には、付けっぱなしの猫耳を。
「……あの、郁?」
「思ってたより手触りとかいいんだね、これ。ところで、今日のこの衣装って、僕の子猫ちゃんって意味?」
 微妙に拍子抜けしたおかげか、私はずいぶんと冷静になれていた。
「……違います。これは、魔女の使い魔っていう設定なの」
「ああ、それで黒なんだ」
 納得したよ、とばかりに郁の手が引っ込んだ。
 郁にしてはあっさり引き下がりすぎという気がする。
 そう思っていたら案の定、郁は浮かべていた笑みを意地の悪そうなそれに変化させた。
「で、月子。僕っていう彼氏がいるにも関わらず、どうしてこんなサービスをしてるのかな」
「サービスって……さっきも言ってたけど、何のこと?」
 時々、郁の言うことはよくわからない。
 それは、意地悪で遠回しに言っていることもあれば、郁の中では常識だけど私の中ではそうじゃないって場合もある。
 どちらにしても性質が悪いなあ、というのが私の素直な感想だ。
「ちょっと月子、立ってみてくれる?」
 大きくため息をついた郁はそんなことを言い出した。拒否する理由もないので素直に立ち上がる。
 こっち向いて、と追加された指示にも従い、郁の正面に立った。
「……じゃあ、そのまま一回転してみて。ゆっくり」
 ますますわけがわからないまま、その場でぐるりと回転してみせる。
 そうして再び正面から向かい合う形になった私に、郁は不機嫌そうに言った。
「ほらね。サービスしすぎ」
「あの、郁。全然わからないんだけど……」
 まあ一応、私が「サービス」をしすぎなのが気に入らない、というのはわかったけれど。
 肝心の「サービス」の説明がないことにはさっぱりだった。
「……まだわからないの?」
 郁は私の両手を取って、軽く握った。
 まるでぐずる子供をあやすみたい――というのは、被害妄想がすぎるだろうか。
「あのね。月子は僕の彼女なのに、僕以外の男の前で可愛い格好見せすぎ。って言ってるの」
(……ええー……)
 呆れたように種明かしをされたものの、むしろ呆れたいのはこっちの方だ。
「……そんなこと言われても」
 そもそもこの衣装は、本当に時間がなくて何の趣向も凝らしていない手抜き衣装なのだ。
 仮装のテーマも全然決まらなくて悩んでて、幼馴染みからの「去年は魔女やってたんだし、もう黒猫とかでいいんじゃねーの。ほら、魔女っ子の宅配便とかお 前好きだっただろ」という冗談混じりのアドバイスを、何の捻りもなくそのまま採用した。
(こんな感じにしてみたよ、って見せに行ったら、何か哉太も錫也も変な顔してたし……)
 最終的に「まあ、いいんじゃないか」と歯切れの悪い感想が返ってきた。
 ハロウィンパーティーの仮装は気合いの入った人が多いし、出来としてかなりお粗末だ、ということなのだろう。
(確かに、このカチューシャの触り心地がいいのは認めるけど……一目で市販品だってわかるし)
 こんな適当に取り繕った仮装で「可愛い格好」も何もないと思う。
「反省の色が見えないな。……悪い子猫ちゃんには罰を与えないと」
 言うが早いか、郁が私の両手を引っ張った。
「……っ」
 私はあっさりとバランスを崩し――気が付いた時には、すぐ目の前に郁の顔があった。
 手を握っていたはずの郁の手は、前傾姿勢になっている私の二の腕を掴んでいる。
 ベッドに座った郁へ倒れ込もうとする瞬間を、強引に一時停止させられた感じになっていた。
「罰として、子猫ちゃんの方からキスしてよ」
「っば、罰って」
「僕以外の男を楽しませた罰。ほら、どうしたの。早く」
 にやにやと笑いながら、郁の手に少しずつ力が籠もっていく。
 それがちょっと痛い上に、そもそも体勢がきつい。具体的に言うと、だんだん腰が痛み始めていた。
「……っ郁、目……閉じて」
「お願いする時の言い方がそれ?」
「と、閉じてくださいっ」
「……まあ、いいか。はい。閉じたよ」
 案外素直に、郁は両目を瞑ってくれた。
 でも郁のことだから、もたもたしていると時間切れとか言って目を開けそうな気がする。
 私は覚悟を決め、首を伸ばすようにして、顔の位置を少しだけ前へとずらしていった。
「……っ」
 触れさせてから、どのくらいしていればいいのかわからなくて、とりあえず五秒数えてから顔を離した。
 と、さっそくダメ出しが入る。
「……ちょっと早すぎ」
「ぅ」
「でも、いいよ。許してあげる」
 前傾姿勢になっていた私をちゃんと立たせてくれてから、そのまま郁も立ち上がる。
「ああ、それと」
 するり、と郁の腕が肩にかかった――と同時、着ていたワンピースの襟元が強引に引っ張られて、そして。
「――っ!? ぁ、ちょっ、郁っ……!」
 鎖骨の下あたりに、素早く触れてきたものがあった。
(ぇ、な――)
 唇で触れられている、その一点だけが妙に熱い。
 逃れようにも両肩を強く押さえ付けられていて動けない。
 ぞくりと背筋を這い上がる妙な感覚に、私はきつく目を閉じた。
「……はい、できた」
「ぇ……」
 恐る恐る目を開いてみる。
 そこにはもう、私の胸元に顔を埋めていた郁はいなかった。
 郁は私から一歩ほど距離を置いた所で、薄い笑みを浮かべて立っている。
 まだ掴まれたままだと思っていた肩は、郁の手が触れていたところがじわりと熱くなっているだけだった。
 引っ張られていた襟元も元に戻されていて、ただそこに、肩のそれとは違う、微かな熱が残っている。
(……?)
 私はどこかぼんやりとした思考のまま、何気なく自分で襟元をずらしてみて、
「――っ!!」
 霞がかっていた思考が一気にクリアになった。
 というか、爆発した。
「それ、月子は僕のものっていう印」
「い、郁……!」
 慌てて小さな痕を隠しつつ何か言い返そうとして、でも何をどう言ったらいいのかわからなくて、ぱくぱくと口だけが動く。
「何? あ、もしかして、僕だけがやったのが不満? 別にいいよ、月子も付けてくれても」
 どうぞ、と襟元を広げてみせる郁。
「……っっ!!」
 私の頭の中は爆発どころか噴火状態だった。
 けれど――
「ってもまあ、お子様には無理な話かな」
 付け加えられた郁の言葉に、私は冷や水を浴びせられた心地になった。
 それと同時、闘争心にも似た何かに火が点く。
「……やります」
「あれ、どうしたの、急に。本気で言ってる?」
「やります!」
 ほとんど自棄になって、私は郁に詰め寄った。
(だって――)
 確かにまだ私は未成年だし、卒業もしてないし、社会的には子供でしかないのはわかってる。
 それでも、出会って一年は経過して、少しでも大人っぽくなれないかなと日々こっそり努力を続けていた私としては、お子様お子様言われるのは心外としか言 いようがなかった。
「わかった。じゃあ、こっちにおいで。このままだとやりにくいでしょ」
 郁は私の手首を取り、返事も聞かずに引っ張っていく。
 そうして再びベッドに座った郁は、正面に立たせた私へ見せ付けるように、吸血鬼の衣装の襟元を広げた。
「どうぞ」
「……っ」
 早くも後悔しながら、けれど私は思い切って一歩を踏み出した。
 ちょっとだけ前屈みになり、露出した郁の鎖骨のあたりへゆっくりと顔を寄せていく。
(……も、もうどうにでもなれ……!)
 唇を押し付けて――そこからどうすればいいのか、自分がされていたことを思い出しながら――触れさせた一点を吸い上げる。
 でも、どれくらいしていたらいいのかがわからない。だからとりあえず、息が苦しくなるまで続けてみた。
「――っ、は……」
 顔を離して確認すると、うっすら赤くなっていた箇所が消えていき、元の肌色になるところだった。
「そんなんじゃダメだよ。もっと強くやらないと」
「……っ」
「もうやめる?」
「……やります」
 今度は思いっきり息を吸い込んでから、同じ所に唇をつける。
 自分から唇を触れさせたのは、今日、これで三回目。おかげで私の感覚は既に麻痺しつつあった。
 だから――恥ずかしいとかそもそも私は何をしてるんだろうとか、そういった余計なことを考えず、ただ必死に郁の肌を吸い上げることに集中して、そして。
「……っ、はぁっ、ぁ……」
「よくできました」
 自分が付けた痕から目が離せなくなっている私の頭を、郁の手が優しく撫でてくれた。
(こ……んな、子供がしないようなこと、したのに……子供扱い、されてる……)
 そんな倒錯めいた現実に、私の感覚――特に、判断力が鈍っていく。
「頑張った子には、ご褒美をあげないとね」
 郁の声にぼんやりと顔を上げると、顎を掴まれる。そして、降ってきた唇を受け止めさせられた。
「ん、んぅ……っ、ふ……んん」
 咥内を探られる感触に、次第に身体の力が抜けていく。
 やがて、ゆっくりと離れていく郁の顔は滲んでよく見えなかった。
「こら、そんな物欲しそうな顔しないの」
 おかしそうに言った郁は、私の両の目元へそれぞれ唇を触れさせる。
 はっきり見えるようになった視界で、また郁の顔が近づいてきた。
 でも今度は、ただ唇にぶつかってすぐに離れていく。と思ったら、次は頬に。それから額、鼻の頭、瞼の上――最後に、また唇に。
 そう、最後まで――ただ、触れるだけで。
「……そろそろ戻るよ」
 ぼうっとしていた私は、その言葉で我に返った。
「あ、うん……」
 返事をしたものの、私は郁に触れさせたままの手を外せずにいた。
「……そんなに寂しい?」
 いつもの郁の、からかい混じりの言葉。
 当然、いつもの私なら強がって誤魔化すところなのに、今はそれができない。俯きながら小さく答える。
「……寂しいよ」
 これからまたしばらく、郁と会えない日々が続く。
(そんなの、もう当たり前のことになってたのに……)
 郁が去年と同じ格好で来てくれたせいだろうか。
 今の私は、まるで一年前に逆戻りしたみたいな――明日も明後日もまだ郁が居てくれるような、そんな感覚に囚われていた。
「素直なのはいいことだけど、今はダメだよ。……僕も、琥太にぃや陽日先生に怒られたくないからね」
 顔を上げた私に、郁は肩を竦めてみせる。
(……あ)
 そこでようやく、今の自分は駄々をこねている子供で、郁はそれを宥める大人だと気付いた。
 郁の言うことは間違ってなかった。
 私はまだ子供で、郁は大人で。
 出会って一年経ったくらいじゃ、その差は全然埋まることはないんだ。
(……久しぶりに会ったのに、こんな子供っぽいところばっかり見せられて、……呆れられた、かな)
 それどころか、飽きられた、かもしれない。
「……まあ、そんな寂しいんだったら」
 また俯きかけた私を止めるように、郁の声が響く。
 郁は両手を組んでみせると、膝の上へと置いてから、こう続けた。
「僕からはもう何もしない。けど、月子からするならいいんじゃない? その間は、帰らないであげる」
 子供っぽい私がしょげているから、かわいそうに思って情けをかけてくれたのか。
 それとも、私の子供っぽさをさらに揶揄しようとしているのか。
「……っ」
 郁の意図がどちらにあるのかはわからない。八割九分、後者という気はするけれど、どちらにしろ。
(……逃げられない)
 何もしなかったらきっと、やっぱり月子はお子様だね、という結論で締めくくられてしまう。
 そんなのは嫌だ。
 さっき自分が子供だって再認したばかりだけど、でも、これ以上お子様になりたくない。
(もっと……郁に似合うような女性に、なりたい)
 私は覚悟を決めて、ベッドに座ったまま、無防備にしている郁へと歩み寄った。
 小さく深呼吸をしてから、肩へ手を掛けて、ゆっくりと顔を寄せていく。
「してくれるのってもちろん、子供のキスじゃないよね?」
「っ」
 ぎくり、と私の動きが止まった。
 もちろんただのキスから始めるつもりで、それ以上のことはあまり考えてなくて――でも今更、後には引けなかった。
「――ん、ぅ……!」
 はっきり言って、やり方なんてよくわからない。
 今まで自分からキスしたことは何回かあったけど、でもそれは全部触れるだけのそれだったわけで。
 だから、さっきのキスマークを付ける時と同じ。
 見様見真似の、自分にされていたことをそのままやり返す的なことを、とにかく必死にやってみるしかなくて。
「っは、ぁ……っ」
 やれる限りのことをやって、顔を離す。目にはいつの間にか、涙が滲んでしまっていた。
「……っ」
 自分からしている間は帰らない――つまり、何もしなければ郁は帰ってしまう。
 それがわかっていて、郁にはまだ帰って欲しくなくて、けれど。
(……身体が、動かない……)
 さっきまで自分がしていたことが、どれだけ大胆な行動であったかを自覚して。
 それなのに、郁は何も返してはくれない――行為も、言葉すらも。
 つまりこれは、どう頑張ったところで一人相撲でしかない。そのことが、わけもわからないまま私を打ちのめしていた。
「それじゃ、帰るね」
 郁はそっけなく言うと、棒立ちになった私をそっと押しのけて立ち上がった。
 そのまま、何も言わずドアの方へと歩いていく。
「っ……」
 のろのろとその後を追うと、郁はドアの前で立ち止まった。
 こちらを振り返って、けれど何も言わない。
 私が黙っていたら、挨拶もなしに出ていってしまうのではないか――そんな危機感に押されて、口を開く。
「あ……あの、今日は来てくれて、ありがとう。……会えて、嬉しかった」
 他に言うべきことがなかったかを考えたけれど、何も思い浮かばない。
「……おやすみなさい」
 まだ言いたくなかったお別れの言葉を、どうにか作った笑顔でもって告げる。
「うん。おやすみ」
 ようやく郁の声が聞けた。
 それだけでほっとして、強張っていた私の顔から力が抜けて――
「……ぁ」
 何故か、私の目から涙がこぼれていた。
「……まったく」
 小さなため息が聞こえた次の瞬間、私の身体は優しく抱き締められていた。
「何もしないって言ったけど……そんな風に泣かれたら、何もしないわけにいかない」
 帰ってしまうのが嫌で泣いてしまった――自分では、そんなつもりはなかったのだけれど――そういった、子供みたいな振る舞いを責められているんだ。
 そう思って、自分の情けなさに落ちこみかけたところへ、郁が小さく囁いた。
「どこで覚えてきたの、そういうの」
「え……?」
「今のって、いわゆる「大人の駆け引き」ってやつだよ? まあ大抵は嘘泣きなんだけどね。……ごめん。泣かせるつもりはなかったんだ」
 啄むような音を立てて、郁の唇が私の目元に触れた。
「僕も寂しいよ。できることなら、一晩中ここに立て籠もりたいくらいにね」
「っ」
「……そうやってすぐ反応する。可愛い子猫ちゃんだ」
 今度は額に、郁の唇が押し付けられる。
「……子供っぽいままで、ごめんなさい」
 耐えきれなくて謝る。
 すると郁は私の目を覗き込んで、
「あんなことまでしておいて、子供っぽい?」
「ぅ、っ」
「っはは、ごめん。今日の月子が頑張ってくれてたのは、ちゃんとわかってるよ。無理に背伸びさせたりして、ごめん」
「……うん。これから、ちょっとずつ、頑張る……から」
「普通でいいよ」
 苦笑した郁に、再び抱き締められた。
「……僕も、久しぶりに会えて、嬉しかった。だから……ごめん。ちょっと、調子に乗りすぎた」
 私の顔は郁の胸に押し当てられていて、郁がどんな顔をしているのかがわからない。
 でもその言葉が、嘘でも冗談でもない、郁の本音だということはわかる。
「これからはちゃんと、月子のペースに合わせるよ」
「……うん」
 私も早く、郁のペースに追いつけるよう頑張ります――とは、心の中だけで続けて。
「おやすみ」
 挨拶の言葉と、挨拶のキス、そして――明日になっても消えない小さな痕を残して、吸血鬼は私の部屋から出て行った。





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 当日は郁月本をお求めいただいた方へ問答無用で押し付けてました。
 春組本をお求めいただいた上でもらっていって下さった方もありがとうございました土下座。