make a start
黒蝶のサイケデリカ、緋影ENDその後の何か。
もはや何番煎じだとはわかっているものの自分の中で色々落ち着けたくてついカッとなって書き殴った。今は反省している。
瞬きをしようとして、けれど出来なかった。
私は大きく目を見開く。眼前に広がる光景を、どう捉えて良いかわからなくて。
一瞬でも目を閉じたりすれば、全ては幻のように、何事もなかったかのように消え去ってしまう気がして。
私は一心不乱に、前方からやって来た二人を見つめ続けた。
「あっ」
少女が小さく声をあげる。ひらひらと舞う蝶は、私の横を緩やかにすり抜けていく。
ごく自然な動作で、少女は飛び去った蝶から私の顔へと視線を移した。ぱちりと目が合う。
(……っ)
狭間から戻って来てからも、色褪せることのなかった記憶。
その中にある、とても愛らしい少女の顔と、数歩先にいる彼女の顔が重なる。けれどぴったりとは一致しない。
眼前の少女も基本的に色白ではあったが、その頬には健康的な赤みがさしている。顔立ちや体付きも、大人びたとまではいかないが、記憶のそれと比べて確実に成長している。
それをはっきりと自覚した私は、先ほどから胸を震わせていた恐怖をどうにか振り払うと、視線を横へと移動させた。
「……、っ」
彼の顔には、――正直に言うなら、見覚えがなかった。
なかったけれど、それでも。
先ほど耳にした声や、その雰囲気、そこに佇む「彼」という存在すべてが、私の心に住まうそれと同じものであると――確たる証拠もなかったけれど、それでも――、はっきりとわかった。
「……っ?」
目を合わせるなり、彼はぎょっとしたように端正な顔を歪ませる。
同時に、彼の妹であるらしい少女が、その大きな瞳を丸くしているのが、歪んだ視界の端に確認できた。
「……あっ、あの、お姉さん、どうかしたんですか?」
「君、大丈夫? どこか痛むのか?」
突然涙を零しはじめた私に、見目麗しい兄妹が困惑しながらも、心配そうに声をかけてくる。
ああ、何か言わなくては。
(心配するようなことは何もないんですって、説明しなくちゃ)
こんな道ばたで、見知らぬ誰かが泣き出したら驚くに決まっているし、その対処に持て余すだろう。実際、どう見ても彼らは困っている。
そう思うのに、どうしても声が出ない。というより、うまく呼吸をすることすら怪しい。
まるで身体の動かし方を忘れてしまったようだった。
そうして、後から後から溢れてくる涙を流すだけの機械になった私は、それを拭うことも許されず――惑乱する感情が落ち着くまで、しばらくその兄妹を困らせ続けることとなった。
***
「……落ち着いたかな」
「はい……すみません、ご迷惑をおかけして」
恐縮しきりで、私は二人に頭を下げた。
泣き続けていたのは数分ほどだった。それでも、普段使わない器官を酷使したせいだろう、目の周りが腫れぼったくてひりひりと痛み、喉の奥もまだ微妙に狭まっていて息苦しさがある。
「あの、これ……」
金髪の少女がおずおずと差し出してきたのは濡らしたハンカチだった。
色柄からして少女のものであろうそれを、ありがとうと受け取り、目元にあてがう。ひんやりとした布地がひどく心地良い。
棒立ちで滂沱の涙を流す私を、彼らは根気よく宥め賺して道の端へと誘導して、近くにあった大きな石に座らせてくれていた。
「その……本当にすみません。それから、ありがとうございました」
落ち着いてくると、自分の行動がだいぶ奇抜というか奇異であったことを嫌でも実感できた。
穴でもあったら入りたい心地になりつつ、謝罪と感謝を述べる私に、彼はにべもなく言った。
「気にしなくていいよ。それより、調子が悪いとか、そういうことはない?」
「は、はい、全然大丈夫です」
傍らに立つ彼から心配そうに覗き込まれ、私はつい声を上擦らせた。
何度目を凝らしても、その顔には覚えがなかった。それなのに、確証があった。
理由も根拠もなにもない、ただの直感でしかないそれは、否応なく私の声を震わせる。
「あ……あの」
「ん?」
何を言えばいいのか。
どう見ても、彼らは私を知っている風ではない。
以前どこかで会ったことがありませんか――なんて、使い古されたナンパの手口みたいなことを言うわけにもいかず、私は必死に無難な言葉を探した。
「ええと、お二人は、その……このあたりの方、ですか?」
「ああ。そういう君は、キャンプに来た人?」
「いえ、その……湖を、見に」
へえ、と相槌を打つ彼の目が、興味深そうに細められた。
「近くのキャンプ場に来た人が散策がてら来てるのは時々見かけるけど、そうでない観光客とは珍しいね。この辺は湖以外、これといって見るべきところもないだろうに」
「お、お兄ちゃん」
慌てたように、彼の妹がシャツを引っ張る。その顔は、まるで小さい子を叱るお姉さん然としていた。
「せっかく来てくれたのに、そういうこと言ったらダメだよ」
「あ……そう、だな。君、気を悪くしたなら、すまない。地元民の戯れ言だと思って聞き流してもらえると有難いんだけど」
「いえ、そんな」
私は両手を振り、気にしていないことをアピールする。
「あ……あの、お姉さん」
「はい?」
彼のシャツから手を離した少女が、私の方へと向き直る。
そして、その頬を桃色に染めながら、意を決したように告げてきた。
「よ、良かったら……この辺り、案内しましょうか。あの、確かに見所が多いわけじゃないですけど、綺麗な花が咲いてるところとか、そういうのもありますし……」
そんな提案をしてきた彼女からは、隠しようのない必死さが滲み出ている。
それは、この場所に幻滅して欲しくない、といった地元愛の賜なのか、それとも。
「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらってもいいかな?」
断る理由のない私がそう返すと、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「はいっ! いいよね、お兄ちゃん」
「ああ、構わないよ」
彼女の提案に、兄である彼は二つ返事で快諾する。そこでようやく、私は彼らの――主に彼の――都合について思い至った。
「あの……乗っておいて今更なんですけど、ご迷惑じゃないですか? 何か用事があったりとかは……」
「そういったものは特にないよ。今日は天気もいいし、湖の周りを散歩しようと思って出て来ただけだから」
「あっあの、お姉さんこそ、何か用事があったりしないですか?」
私の要らぬ気遣いを受けて、妹さんが申し訳なさそうに尋ねてくる。私は必要以上ににっこりと笑顔を作り、彼女の懸念を否定した。
「私の方も何もないよ。用事……はあったけど、もう済ませちゃったし。あとは帰るだけかなって感じで」
「じゃあ、帰る時間とかは、大丈夫ですか?」
「うん、全然大丈夫」
家にはあまり遅くならないようにする、と告げて出てきた。今はまだお昼過ぎだし、すぐに帰る必要もない。
その旨を伝えると、彼女は安心したように再び笑顔を見せてくれた。
「それじゃあ、お姉さん。えと……もう平気ですか?」
「うん、大丈夫。本当に、心配かけちゃって、ごめんね」
「いいえ。では、行きましょうか。まずは……こっちです!」
湖の方を示す妹さんに微笑み返しながら、私は座っていた石から立ち上がる。と、ひらりと布のようなものが地面に落ちた。
清潔そうな白のハンカチ。私のお尻の下に敷かれていたらしいそれを、お兄さんの方が拾い上げた。
軽く払ってから几帳面に畳み始めたのを見て、私はその持ち主が彼であることを悟る。慌てて駆け寄った。
「あっあの、それ……」
「ん? ああ、別に汚れたりしていないから、気にする必要はないよ」
気にしているのは土汚れよりも、自分の尻の下に敷いていたという方だ。
横目で確認すると、私が座らされていた石は表面が苔むしているということもなく、普通に座っても衣服が汚れるほどではなかったはずだ。それなのに、当然のようにハンカチが敷かれていた。
(確かに、今日のワンピースは白だし、汚れたら目立つかもしれないけど……)
ごく自然になされた紳士的な気遣いは、彼の育ちの良さを窺わせる。
今となっては自分しか知り得ない「彼」の情報。
その「彼」との僅かな共通点を見た気がして、胸の奥が小さく震えた。
「あのでも、洗って返します。こっちと一緒に」
先ほど彼女から渡された、濡れたハンカチを示す。
すると彼は一瞬、ぽかんとした表情を浮かべ――やがて、それを苦笑へと変化させた。
「君は……いや、何でもない。そちらも気にしなくていいから。それより……」
「え」
驚く間もなく、視界いっぱいに彼の顔が広がる。
顔の温度が一気に上昇したのを知覚したあたりで、彼は近づけた顔をさっと引いた。
「それはまだ使っていた方がいい。まだ少し腫れているよ」
そう告げて、彼はハンカチを持つ私の手をやんわりと押し返した。
「さあ、行こうか」
彼が示す先――先に歩き始めていた妹さんが足を止め、心配そうな目を向けてきている。
彼女が大丈夫ですかと口にする前に、私は足を動かした。
***
湖の周囲に設置された遊歩道。それを辿りながら、森の中の小道に入って野鳥の巣を教えてもらったり、湖の一角にしか咲いていないという花を観察したり。
一人で散策していたら絶対に気付けそうにないものを、少女は一つ一つ丁寧に案内してくれた。
彼は私と彼女の数歩後からついてきていて、時折、妹の解説に補足を付け加えていた。彼女の知識は、彼から教わったものなのかもしれない。
ただ、彼らが湖にある浮島に足を向けることはなかった。
といっても、浮島に続く歩道の柵が一部壊れているとかで、補修が終わるまでは立ち入らないよう入口が封鎖されていたせいだけれど。
そうして楽しい時間はあっという間に過ぎていき、気が付けば中天にあった太陽は地平線の向こうに沈みかけていた。
「湊戸さん。夜までには帰る、って話だったよね」
後ろを歩いていた彼から話しかけられ、私と妹さんが振り返る。
「あ、はい」
腕時計に目を落としていた彼は、足を止めた私たちを見てこう告げた。
「なら、そろそろバス停に行った方が良さそうだ。確か次が二十分後で、その後は終バスしかなかったはずだ。それだと遅すぎるだろう」
言われて、私はスマフォを取り出した。
事前に調べておいた時刻表を確認すると、彼の言う通り今日のバスは残り二本となっていた。終バスでも帰れないことはないが、家に着くのはだいぶ夜遅い時間になる。
「そう、ですね。じゃあ……次のに乗って、帰ります」
すぐ隣で、少女がしょんぼりと顔を俯かせたのがわかった。
けれど、私が何かを言う前に、彼の大きな手が彼女の頭へと乗せられる。
ゆっくりと顔を上げた妹に、兄である彼は優しく微笑んだ。
「さあ、彼女をバス停まで送ろう。今から行けば丁度いいはずだ」
「……うん」
三人で来た道を戻り、バス停に辿り着いたのは出発の三分ほど前だった。
「今日は色々と、ありがとうございました。すごく楽しかったです」
私は二人に向かって、深々と頭を下げた。
「あの、私も楽しかったです!」
「僕も、それなりに楽しめた。まあ、最初は驚かされたけれど……いい時間を過ごさせてもらったと思うよ」
「……ほ、本当に、お世話になりました……」
今思い返してもあれは醜態と呼ぶべきものだったと思う。恥ずかしさで俯きかけた私は、そこではっと気付いた。
「そうだ! 借りたハンカチ、洗って返すね。あ、えっと……」
勢いよく宣言したものの、返すための具体的な方法までは考えていなかった。
相変わらずの詰めの甘さに頭を抱えたくなりつつ、いきなり住所を聞くのは失礼だろうかと思い、言葉に詰まってしまう。
自らの発言で困り始めた私に、彼女は慌てたように言った。
「そんな、そこまでしてもらわなくて平気ですから」
「でも――」
今日一日、この兄妹と過ごしてわかったことがある。
それは、やはり彼らは何も覚えてはいない、ということだ。
私は何度か、狭間での出来事についてそれとなく話を振ってみた。けれど、その全てが空振りに終わっていた。
そのことに私はほんの少し落胆しながら――けれど同時に、深く安堵もしていた。
(だって、それって)
生まれ変わることが出来た、と思しき彼らには、あのつらく悲しい思い出は残っていない、ということになる。
――だとしたらそれは、何よりの救いであると、そう思えたから。
「ええと、その……そう、このハンカチ、少しだけ借りてても平気かな?」
だからこそ、私は必死に食い下がった。
この二人との繋がりを断ちたくなくて。
別に、思い出して欲しいわけじゃない。ただ彼らともう一度、楽しくて穏やかな時間を過ごしたいと、そう思っただけで。
「え……は、はい。構いませんけど……」
あまりにも必死な私の様に、少女は半ば引き気味だった。
兄の方にはどう思われているだろうか。考えただけで怖くて、私は彼の方を見れないまま、後を続けた。
「ならやっぱり、洗って返させて。だから……また、会えないかな」
図々しいことを言っている自覚はあった。
半日ほど一緒に過ごしただけで、簡単な自己紹介と、世間話程度の会話しかしていない。
変質者、とまではいかなくても、不審がられておかしくない状況だった。もしここに、私の知る「彼」――緋影くんがいたとしたら、確実に警戒されたに違いなかった。
けれど。
「わかった。なら、連絡先を交換しよう」
「えっ!?」
思わず頓狂な声をあげてしまい、私は慌てて口を押さえた。
「……安心してくれ、変なことに使うつもりはない」
気まずそうに表情を歪めながら、彼はポケットから携帯を取り出した。
「あ……そ、そういう意味じゃないんです! 今のは、その……そちらから、そう言ってもらえるとは思ってなかったというか……」
しどろもどろで言い訳しながら、私は慌ててポーチの中を探った。
ようやく見つけたスマフォを手にすると、すぐ目の前に彼の携帯が掲げられる。
液晶には、その端末の携帯番号が表示されていた。
「えっと……」
「ん? ああ、見えないか?」
「いえ、そうではなくて……」
彼の携帯はガラケーと呼ばれるもので、携帯同士なら赤外線通信で違いの番号が交換できる。
私の使うスマフォもそうした通信が可能なタイプだけれど、スマフォの中にはそれが出来ない機種もある。
彼はそれを慮って、直接番号を見せてくれているのだろうか。
(……多分、違う……よね?)
緋影くんはああ見えて機械音痴だった。ずっと昔に生まれた人なのだから、それも仕方のないことだとは思う。けれど。
(現代に生まれ変わっても、機械が苦手なまま……なんだ)
「? 何を笑っているんだ? どこかおかしいか?」
怪訝そうな顔を見せる彼に、私はぶるぶると首を振った。
「そ、そんなことないですよ? えっと……登録、っと。じゃあ、私からかけますね」
「ああ」
登録したばかりの番号を表示させて、通話ボタンに触れる。
一回コールしただけで、大丈夫だと彼が合図してくれた。どこか名残惜しさを感じながら、私はそっと電話を切った。
「あ、バスが……」
少女の声に目をやると、道の向こうからバスがやってくるのが見えた。
「メール……を交換してる時間はなさそうですね……」
「そうみたいだな。では、次にこちらへ来る時は事前に連絡してくれ。夜なら大体出られると思う」
「あ、はい。……あの、ありがとうございます」
「別に、礼を言われるようなことでもないと思うが……いや、それを言うならこちらこそ、今日は妹に付き合ってくれてありがとう」
「え、そんな、付き合ってもらったのは私の方で」
私の言葉を遮るように、彼はゆっくりと首を振った。
「こんなにはしゃいでいる妹を見たのは久しぶりでね。君のおかげだ」
停留所にバスが到着した。プシュー、と音を立ててドアが開く。
ここからバスに乗るのは私一人しかいないようで、いつまでもぐずぐずしてはいられなかった。
「それじゃあ、失礼します。今日は本当にありがとうございました」
改めて頭を下げてから、私は素早くバスに乗り込んだ。すぐに扉が閉まる。
空いている後部座席の窓側へ急いで座り、その場で見送ってくれている兄妹に手を振った。
停留所が見えなくなり、私はきちんと座席に座り直した。
それから、手にしたままのスマフォを操作して、電話帳を呼び出す。
表示した画面には、名前を登録する間がなかったため、ただ番号だけが登録されている。
「……」
しばらくの間、私はその画面を呆けたように眺めていた。
***
「お姉ちゃんってさ、好み変わったよね」
「え?」
ある日の夕食時、ハルカは唐突にそんなことを言い出した。
「好みって……何が?」
「食事の。前はこんな和食党じゃなかったよね?」
ハルカが手にした箸で食卓を示す。お行儀が悪いよと注意するか迷って、結局言葉を飲み込む。
今うかつに口を開いたら、内心の動揺が表に出てしまいそうで――私は慎重に、無難そうな言葉を選んだ。
「そんなこと、ないと思うけどな」
「えー、そんなことあるよ。ねえお父さん」
「そうだなあ。言われてみると、アイが当番の時は和食の割合が多いような気もするかな。でも、お父さんはいいと思うよ、和食。栄養のバランスもいいし、何よりアイの作る和食は美味しいからね」
「そ、そうかな。えへへ、まだまだだとは思うんだけどね」
「謙遜することないだろう。ほら、この煮物とか」
ぎくり、と今度こそ心臓が跳ねる。
「あーそれ! この煮物、何でいつも作るの? まあ、味は悪くないけど……でも毎回だと飽きるー」
ぶーぶーと不満そうなハルカに、私は平静を装って口を開く。脳裏に、あのどんな時でも動じない、澄ました顔を思い浮かべながら。
「嫌なら食べなくていいよ。私が食べたくて作ってるだけだし」
「むー。ねえお姉ちゃん、和食作ると結構美味しいんだしさ、たまには他の煮物も作ろうよ。山菜の煮物なんて、お爺ちゃんとかお婆ちゃんの食べ物みたい」
口を尖らせながらも、ハルカは私の料理の腕を認めてくれていて、だからこそ単調なレパートリーが物足りないと言っているのだ。
それはわかったけれど、でも。
「はいはい、若者のハルカと違って私は婆くさいですよーだ」
「もー、そんなこと言ってないじゃなーい!」
さすがにこれ以上はハルカの機嫌を損ねかねない。
私は誤魔化すのをひとまず止めにして、また今度ね、と曖昧に話を終わらせた。
どんなに腕を磨いたところで、食べてもらえることなんてない。
それでも私は、彼から聞き出した好物を作り続けた。
いつまでも引き摺っていても仕方がないのはわかっている。
でも今はまだ、彼への想いに浸っていたかった。
あの不思議な出来事を――彼への恋心を、笑って思い返せるくらいになるまで。
誰にも言えないこの想いが昇華されて、思い出に変わる、その時まで。
***
「それじゃあ……何にしましょうか。湊戸さん」
普段から使っているらしい可愛らしいエプロンを着け終えて、彼女が聞いてくる。
「リクエストとかは特にないんだよね。うーん……じゃあ、冷蔵庫を見させてもらってもいいかな? それから、アイでいいよ」
「あ……はい。では、アイさん」
「うん。それじゃあ失礼して……中にあるのはみんな使っても大丈夫?」
「はい。でも、あまりないかもしれません。明日、お兄ちゃんと買い出しに行く予定だったので……」
「そっかあ。うーん、これだと……」
私は冷蔵庫をチェックしながら、使えそうな食材を並べてあれこれと思案し始める。すると、ストッカーを確認していた彼女が小さく歓声をあげた。
「あっ、頂き物の干物がありました!」
「干物かあ。じゃあ、それを焼いてメインにして……付け合わせで簡単にサラダと……に、煮物とか、どうかな。山菜の」
「わあ、いいですね! 山菜の煮物って、お兄ちゃんの好物なんですよ」
「そ、そうなんだ」
私は顔が引きつりそうになるのを堪えながら、無難な相槌を返した。
(……好物まで変わらないんだ)
偶然にしてはあまりにも出来過ぎていて、やはり夢なのではないかとすら思えてくる。私はこっそり腕を摘んでみたものの、普通に痛かった。
――ここは、彼とその妹が住む家だ。
私はそのキッチンに立ち、妹さんと共に夕食の準備をしている。
何故こんなことになったかといえば、様々な偶然が重なりに重なった結果としか言いようがない。
あの日、彼らに見送られ、無事に家へと帰り着いた私は、通話ボタンを押す勇気を出すのに数日を要しつつ、彼へと連絡を取った。
互いの予定を付き合わせた結果、会った翌々週の土曜に落ち合うことになって。
私はきちんと洗濯してアイロンがけをしたハンカチを、文具屋で見つけたかわいらしい袋に入れ、その日を待った。
当日。朝も早いうちにバスに乗り、昼前には到着した。
バス停で待ってくれていた彼らと再会した私は、まずハンカチを返した。簡素なラッピングをされたそれを見て、妹さんは恐縮しながらも可愛いと喜んでくれた。
それから、前回案内しきれなかったところを案内しますと、妹さんに連れられて湖周辺を散策した。この間と同じく、彼は後ろからついてきては、時折解説を交えてくれた。
雲行きが怪しくなってきたのは十五時過ぎだったろうか。薄曇りになってきたなと思ったら、急に空が暗くなり始めた。
もたなかったか、と彼は空を見て呟いた。話によるとこの辺りは天気が変わりやすいのだという。朝のニュースでも午後は雨が降るかもしれないと言っていた、と彼女が付け加えた。
私も天気予報は見てきたけれど、県全体が晴れ時々曇り、みたいな大まかな地域予報だったし、当然ながら傘は持ってきていない。雨具がないのは彼らも同様で、とりあえず降り出す前に屋根のある所へ移動しようと湖から引き返した。
が、それから数分もしないうちに降り出して、あっという間に豪雨となった。
間一髪、私たちは湖の近くにある売店に駆け込むことができた。とはいえ、しばらくそこから動く気にはなれないほど雨のひどさに、私たちは半ば途方に暮れていた。
やがて彼が、帰りのバスは大丈夫かと聞いてきた。
私はその問いに、今日は遅くなっても平気だと返した。なるべく彼らと長く居たいと考えた私は、元々終バスで帰るつもりでいたのだ。
家族にもそのように伝えてあって、お父さんは少し渋ったし、ハルカは怪しいとばかりに色々と勘繰ってきたけれど、何とか了承を得て出て来たのだ。
すると、少し早いけれど夕飯を一緒にどうかと妹さんが提案してくれて、私も彼も同意した。ならば食事処へ移動しようと、売店で人数分の傘を買い、まだ雨脚の弱まらない中を歩き始める。
ところが、行こうとしていた店は臨時休業していた。すまない、と謝る彼にこんなこともありますよと笑ってみせてから、とりあえず空いてる店に入ろうと妥協案が採決された。
少し歩いた先に喫茶店を見つけ、中に入る。もう閉めようかと思っていたという店主は簡単な物しか出せないけど、と済まなさそうに言った。
ひとまず雨風がしのげれば構わなくもあったし、歩いて疲れたので甘い物にしようと妹さんと私はケーキセット、彼はコーヒーだけを頼んだ。
ひとしきり食べて話して、店の閉店時間が近くなった。雨はまだ降り続いていて、終バスの時間にはもう少しあったけれど、移動に時間もかかるからと店を出た。
どうにかバス停に辿り着いて、終バスを待つ。けれど、時刻表の時間を五分、十分と過ぎてもバスがやってくる気配はない。
雨のせいで道が混んでいる可能性もある、と言っていた彼は、二十分経過したあたりでさすがにおかしい、とバス会社に電話をかけ始めた。
そうして告げられたのは、今日の終バスは大雨の影響で運行を停止したという知らせだった。
この周辺はキャンプ場があり、地元民以外の人の出入りはそれなりにある。だが、大半は貸し切りのバスや自家用車でやってくるのがほとんどで、地域が運営するバスを使うの者はそう多くはない。
それでも地元民の足には違いなく、細々とした営業が続けられていて――要するに平日はそれなりに利用客も多いが、休日となるとその客足は一気に目減りする。終バスが無人であることもしばしばなのだそうだ。
そこに、この大雨だ。河川が増水したことで、途中の橋がやや危険な状態にあるとの報がバスの運営会社に入ってきた。
雨が全く弱まらないこともあり、運営会社は終バスの運行を中止を決定したのだという。
また、これは後になって聞いたことだけれど、数年前にバスが事故を起こしていることも、少なからず影響していたらしい。
職務怠慢だ、と電話を切った彼は吐き捨てたが、増水した橋を渡るのも危険には違いない。
何であれ帰る手段を失った私は、キャンプ場で泊まれないか聞いてみようと考えた。空いているコテージがあれば借りられるかもしれない、そう思って。
そう呟くと、兄妹は何を馬鹿なと呆れたように言った。
――うちに来ればいい、と。
***
彼らは現在、湖の近くにある一軒家に二人で暮らしているのだという。
といってもご両親は健在で、仕事の関係で海外を飛び回っていて滅多に帰ってこない、とのことだった。
二人だと色々と大変ではないのか、と聞くと、週に何回か掃除や買い物などの家事を代行してくれる業者を頼んでいるそうで、学生としての生活に支障はないと話してくれた。
そう――彼は私と同じく大学生で、妹さんは中学生。
兄妹の年齢は、私たちが現世に戻って来てから経過した時間が、湖の底で出会った彼らに上乗せされたような状態だった。
つまり私たちがサマーキャンプに来ていた頃、彼らは既にこの辺りで生活していたということになる。
彼らが何故、ここに居るのか。もっと言うなら、彼らは本当にあの時の二人なのか。
彼らの話を聞けば聞くほど、狭間にいた館の主とその従者との共通点を見出すことが出来た。
けれど、彼らは何も覚えていない。
それは裏を返せば、奇跡的に偶然が重なっただけの、他人の空似という可能性もあるということだった。
(……でも)
彼らは今、現実としてここに存在している。手を伸せば触れられる位置に、彼らは生きている。
それだけは、決して揺るがない確かな事実で。
(だから……二人が、緋影くんとウサギちゃんの生まれ変わりであっても、そうでなくても……私は)
彼らが幸せであって欲しいと、そう思う。
まだ直接会ったのは二回目だ。
彼らの何を知っているかと言えば、先述した通りの簡単な生活状況くらい。
それだって、今日あちこちを案内してもらいながら初めて聞いたことで、昨日までは顔見知り程度の知識しかなかった。
それでも、私は強く希う。
二人がどうか幸せな日々を送れますように、と。
***
「はぁー……」
湯船に浸かって、軽く伸びをする。
私は遠慮したのだけれど、気にせずどうぞと一番風呂をいただいてしまっていた。
(……何だか……嘘みたいな日だった)
肩までお湯に浸かりながら、私はぼんやりと今日の出来事を思い返す。
まさか会って二回目で、家にお邪魔するばかりか泊めてもらうことになるとは予想もしていなかった。
(お夕飯作って、三人で食べて……)
食卓に並んだ品々を見た彼の反応は、これは美味しそうだ、と社交辞令ともお世辞とも取れる一言くらい。けれど、残さず全て食べてくれた。
戻って来てからずっと、ただの自己満足で作り続け、磨いてきた料理の腕。それがようやく報われた――というよりは、続けてきて良かったという思いの方が強かったし、そして。
(……ようやく、他の煮物も作ろうかなって気分になれた)
帰ったら、いつもと違う煮物を作ってハルカを驚かせてやろう。
ハルカのことだから、「どういう心境の変化!?」などとしつこく聞いてきそうな気がする。そういえば、帰りが終バスになると告げた時も妙に勘繰られたことを思い出す。これは問い詰められるのを覚悟した方がいいかもしれない。
(そうなったら……何て言おうかな)
彼らのことを話すのは構わない。むしろ話したいと思う。
けれど、そこから煮物のレパートリーを変える気になった理由までは説明できそうになかった。
(誤魔化すしかないかなあ……)
きっとまた頬を膨らませてぶーぶー文句を言われるのだろう。その姿が目に浮かぶようで、私は苦笑を漏らした。
「……あれ?」
じわりと、視界が滲んだ。
喉がひくつく。ぱちぱちと瞬きをすると、目尻に水滴が溜まったのがわかった。
(やだ、今更……遅くない?)
心の奥底で渦巻いていた様々な感情が、一人になってようやく外に出て来たのだろうか。一度自覚してしまうと、それは堰を切ったように後から後から押し寄せてきた。
私は湯船の中から両手を出して顔を覆い、軽く唇を噛んだ。
人様の家でお風呂を借りておいて、そこで泣き出すなんてどうかしている。
けれど、泣けるとしたらここしかないのも事実で。
(……ごめんなさい、ちょっとだけ……)
浴室内に声が響かないよう注意しながら、私は少しの間だけ、嬉し涙を流し続けた。
***
お兄ちゃんのだけどちゃんと洗ってあるので大丈夫だと思います、と渡された上下のスウェットはかなりだぶついているものの、着られなくはなかった。
着るときにちょっとだけ匂いをかいでしまったのは秘密。
ちなみにほんのりと洗剤のような香りがしただけなので、変に緊張せず安心して着用することができた。
もちろん、何やってるんだろう私、と自分に呆れもしたけれど。
「あの、アイさん。寝る場所なんですけど、私の部屋でも大丈夫でしょうか。もちろん、お一人の方がよければ空いてる部屋を準備しますので」
何だかんだで彼女とはまだ話し足りない気がしていたし、私は同室で構わないと答えた。妹さんはベッドで、私は床に布団を敷いてもらって眠ることとなった。
寝る準備を済ませて布団に入ってからも、他愛のないおしゃべりが続く。
そのうちに彼女の言葉がむにゃむにゃと不確かなものになり、やがて反応が返らなくなった。そっと起き上がってベッドを覗き込むと、彼女はすうすうと穏やかな寝息を立てている。
私は少しめくれ気味の布団を直してやってから、部屋の明かりを落とした。
布団に潜り込んだ私は、薄暗がりの中で静かに目を閉じた。
すると頭の中に今日あったことが次々と浮かんできて、ついでにその時々の感情なども思い返されてしまい、とうとう目を閉じていられなくなってしまった。
「……」
外はまだ雨が降り続いていて、ざああと耳に雨音が届く。
それはあの館での夜を思い起こさせる。いつしか緊張感にも似た何かを覚えて、私は僅かに身体を固くした。
(……寝て起きたら、全部夢だったり……しないよね)
ふいに馬鹿げた考えが頭に浮かんだ。
そんなわけないと思いつつも、もしこの家で暮らす二人の兄妹が幻なのだとしたら、それは――それはとても、残酷なことだと思った。
じわりと広がる不安。こんなことがあるわけない、という現実味の薄さ。こんなことがあって欲しかった、という私の願望。
それらはぐるぐるとない交ぜになって、私の心を浸食していく。
(……っ)
こんな状態で眠れるわけがない。
しばらく悶々としていた私は、諦めて静かに身体を起こした。ベッドで眠る彼女から規則的な寝息が聞こえてくることに小さく安堵する。
不要な緊張のせいだろうか、喉がからからになっていることに気付く。少し考えてから、音を立てないよう慎重に部屋を出た。
(とりあえず……お水、飲ませてもらおう)
夕飯を作ったおかげで、キッチンのどのあたりにコップがあるかは把握している。
確か食器棚の下段にカップとかと一緒に並んでいたはず、と思い返しながら、そろりそろりと階段を下りていく。
(あれ……電気がついてる?)
一階に下りて廊下を進むと、向かう先から明かりが漏れているのに気が付いた。
もし消し忘れでないとしたら、そこにいるのは一人しかいない。
「……」
私はさらに足音を忍ばせながら、リビングへ続くドアに近づく。
ドアは格子枠の中にガラスがはめ込まれているタイプで、覗き込めば中が見える。それは逆に、中からも外が見えるということだ。
私は慎重に、中から死角になりそうな位置から、そろりと室内を窺った。
(……あ)
予想通り、彼がいた。
リビングのソファに座る彼は、ここからだと後頭部しか見えない。なので、何をしているのかまではわからなかった。
「……」
入っていいものか迷ったけれど、喉の渇きは深刻で。
私は深呼吸をして覚悟を決めてから、ゆっくりとドアを押し開いた。
気付いた彼がこちらを振り向く。
「……君か」
「ど、どうも……」
どことなくばつの悪さを感じながら、私は愛想笑いを浮かべた。
「どうかした?」
「その、喉が渇いちゃって、……お水をもらいに」
「そうか。……だったら、何かお茶でも淹れようか」
ソファから腰を上げた彼に、私は慌てて告げる。
「い、いえそんな。そこまでしていただかなくても」
「ちょうど僕も、何か飲もうかと思っていたところでね。君さえ良ければ、付き合ってもらえないか」
キッチンに行きすがら、私の前で足を止めた彼はそんな風に告げてきた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
断る方が失礼なように思えて、私は折れるしかなかった。
とはいえ、お茶が出てくるのを待つだけ、というのはさすがに気が引ける。私はキッチンへ向かう彼を追った。
「あの、手伝います」
「君はお客様だろう。適当にくつろいでいてくれ」
彼は何も間違ったことは言っていない。
それでも、そんな気にはなれない私は、彼の論理の穴を容赦なく突き崩しにかかった。
「だったら、今日の夕飯を作ったのは、あなたの妹さんとそのお客様ですよ。今更じゃないですか?」
「それは……」
言葉を続ける代わりにため息をついてから、ではお願いするよと彼も折れてくれた。
それから、彼と二人で紅茶を淹れることになった。
自分が紅茶党であることを告げると、君の方が詳しそうだと戸棚を示された。開けるといくつか紅茶の缶が並んでいて、普段は妹さんが淹れることが多いと聞かされる。
妹さんの紅茶の趣味に感心しつつ、夜が遅いことも考慮してハーブティーを選んだ。
きちんとカップを温めて、時間を計って抽出して――結果的に、ほとんど私が淹れたような形になってしまった。
ただ隣で、なるほどそうやるのか、などと興味深く呟かれるのは悪い気はしないというか、正直に言うなら気分が良かった。
リビングに戻り、私たちは二人がけのソファに腰を下ろした。
ハーブティーに口をつけると、ほんのりと優しい香りと味が広がる。
「……美味しい」
「確かに。君の腕は中々のものだな」
「え? あ、ち、違います。今のは、良い茶葉だなって意味で!」
あとで妹さんに茶葉をどこで買ったのか聞かなくては。
そう思っての感想だったのに、彼には紅茶の淹れ方が優れていた、という自画自賛に聞こえたらしい。
慌てて否定する私に、彼は不思議そうに続けた。
「そう謙遜しなくてもいいだろう。紅茶は淹れ方一つで味が変わるものだ。そう、慣れない僕が淹れたものより、妹の淹れたものの方が格段に美味しいのだし」
褒められたような気がしたけれど、ただの妹自慢にも聞こえる。
一応お礼を言うべきか迷って、結局そうですねと同意するだけに留めた。
そうして、しばらく無言でハーブティーを味わう。
(……そういえば、直接二人きりで話すのって、これが初めて……だよね)
初めて出会った時も、そして今日もずっと、妹さんと三人で過ごしていた。
今日の予定を交渉するために電話はしたけれど、基本的に用件のみをやり取りするだけの、事務的な会話しかしていなかったのだ。
(う……どうしよう。変に緊張してきたかも)
ずっと無言のままというのもおかしいし、そろそろ何か話すべきだろう。けれど何から話せばいいのか、焦った思考が空回りする。
「――湊戸さん」
「えっ、は、はい!」
突然名前を呼ばれて、思わず声が裏返る。
「今日は……いや、今日だけじゃない。この間のことも含めて、改めてお礼を言わせて欲しい。ありがとう」
「そ――そんな、お礼を言うのは私の方です。色々案内してもらったりたくさんお世話になったし、その上今日は泊めていただいたりして」
私の反論に彼はゆるく首を振る。
――そして、静かに語り始めた。
「……妹は、あまり身体が強い方じゃなくてね。遊びたい盛りだろうに、家の中で寝ていることも多いんだ。そのせいか、少しばかり人見知りの気もある」
初耳だったけれど、それほど驚きはしなかった。やはりそうだったのか、とすら思った。
話の腰を折るまいと、黙って彼を見つめる。
「もちろん、ずっと寝たきりというわけじゃない。調子のいい時は僕が外に連れ出して、湖の周りを散策したりしているからね。……あの子の「湖の穴場案内」、中々だったろう?」
なるほど、あれはやはり彼の受け売りだったのだ。私は頷く。
「君と出会った日は、あの子の調子がすこぶる良くてね。僕も妙にそわそわした心持ちがして……二人で散歩に出た。そうしたら君に遭遇して、……出会い頭に泣き出すものだから、何事かと思ったよ」
「あ、あの時は……その、本当にすみませんでした……」
「いや、責めてるわけじゃない。驚いたけれど、……何だろうな。うまく……言えないんだが」
「……?」
彼は言いにくそうに言葉を濁すと、私から視線を外した。
少し間を空けて、再びその口が開かれる。
「先ほど、妹は人見知りの気があると言ったね。なのにあの子は、自分から君へ案内を申し出た。……正直、そっちの方が驚いたよ」
「そう……なんですか?」
私は思わず問い返していた。
彼女の笑顔はとても人懐こくて、人見知りの子が浮かべるものとは思えなかったから。
「ああ。学校も休みがちだから、あまり友達も多くないみたいでね。……だから、君を見送った後、あの子に聞いてみた。どうして声をかけたのかと」
何か、核心めいたものを目の前に突きつけられている。そんな錯覚に陥りながら、私は彼の言葉を待った。
「あの子はこう言った。何だか懐かしい気がした、と。だから、気が付いたら声をかけていたのだと」
「……!」
そこまで私の方を見ずに語ってきた彼が、ようやく私に顔を向けた。
真摯な瞳には、戸惑いの色が滲んでいる。
「僕も、……ずっと、そんな気がしていた。だが、僕たちと君は、これまで一度も会ったことがないはずだ。僕は記憶には自信があるし、それは間違いない。けれど、……君を見ていると、ひどく……何というか、その」
そこで言葉を切った彼は、的確な言葉を探しているのか、しばし視線を彷徨わせた。
けれど、それは見つからなかったらしい。
「……妙に、胸の奥がざわついて……苦しい、とはまた違うんだが、……こう、一杯になる、というか」
辿々しく、断片的に言葉を綴る彼は、胸の辺りを押さえながら――まるで迷子のような、困惑した目で私を見た。
その視線に、けれど私は何も返すことができない。
そうただ、逃げることなく、見つめ返すのが精一杯で。
時が止まってしまったのではないかと思うくらい、私たちは長いこと視線を絡ませ、見つめ合っていた。
やがて、均衡を破ったのは彼だった。
「君は……一体」
熱に浮かされた、譫言めいた呟きのあと。
ゆらりと彼の手が伸びてくる。
その指先は躊躇いがちにそっと私の頬に触れ、やがて大きな手のひらで包み込んだ。
(……っ)
触れられた頬に覚えのある温もりが伝わって、熱が宿る。
彼の顔がゆっくりと近付いてきていた。途切れた問いかけの続きを、逸らされることのない目が訴えてくる。
君は一体何者なのか、と。
一瞬、聞かれたことに正しく答えてしまおうかと、甘美な誘惑に目が眩む。
――けれど。
私はしっかりと目を見開いて、彼を見つめ返した。
いつまでも夢見がちではいられないと、そう思うから。
それに何より、黒い蝶の気持ちがわかると言った「彼」が、私を評したように――強くなければきっと、望む結末など手に入りはしないのだろうから。
(……私は)
爪を立てるようにして、両手を握り込む。
そうして精一杯に、さっきから零れそうになっている涙を必死に奥へと押し込めて、平静を装う。
(ここでまた泣いたりしたら、今度こそ誤魔化せなくなる。……理由を話さなくちゃいけなくなる)
もちろん、何か適当にでっちあげればいいのかもしれない。
けれど、私の拙い嘘を彼が見破らないはずがない。何故か私はそう確信していた。
「私は……」
――そもそものはじまりは、ただの好奇心。
館の謎を解き明かしたい、から始まったそれは、緋影くんのことが知りたい、に変化して。
ウサギちゃんから真実を知らされた私は、それが本当なのか確かめたくて――本当の緋影くんを知りたくて、ウサギちゃんに提案した。
そうして対峙した緋影くんを前に、私は強く思ったのだ。
彼に幸せになってもらいたい、と。
そして、今のこの状況は、私が望んだ未来そのものだ。
あのつらい記憶を持たない彼らは、穏やかな毎日を過ごしている。そう、だから。
(だから……絶対に、狭間でのことは話さない)
今目の前にいる彼は、緋影くんの生まれ変わりであるのかもしれない。
けれど、今もなお彼が「緋影くん」であるかといえば、答えは否だ。
緋影くんは緋影くんで、彼は彼。
常世でも狭間でもない、現世の今に、彼は生きているのだから。
(この人は、私が恋をした……緋影くんじゃない。だから、私のことを思い出して欲しいとか、そんなことは思ってない。……でも)
私はしっかりと、揺れる彼の瞳を見つめ返す。
(私はまた……緋影くんであったかもしれないこの人のことを、……好きに、なるのかもしれない)
実際、彼のことが好きなのかなんて、自分でもわからない。全然わからないけれど。
この先、彼らの幸せに寄り添ってゆけるのだとしたら――それは、とても素晴らしいことのように思えたから。
「私は、……私です。「湊戸アイ」である以外の、何者でもありません」
気が付けば私は、誤魔化すために貼り付けた笑みではなく、自然と微笑むことが出来ていた。
また、沈黙が落ちる。
それはものすごく長かったのかもしれないし、短かったのかもしれない。
そうして――私の頬から、するりと熱が失われた。
「……そう、……だな」
いつしか彼は、普段通りの真っ直ぐな瞳を取り戻していた。私に触れていたその手を額に当てて、軽く頭を振る。
「……すまない。随分、おかしなことを言った。……その、出来たら、さっきのは忘れてくれると、有難いんだけれど」
「わかりました。じゃあ、聞かなかったことにしますね」
「……助かる」
小さく告げ、項垂れた彼の耳はほんのりと赤い。我に返ったことで、気恥ずかしさに襲われているのかもしれない。
つい笑ってしまいそうになるのを堪えながら、私はハーブティーの残りを一気に飲み干した。
「……それじゃあ、飲み終わったので、お先に失礼しますね」
彼の返事を待たずに立ち上がる。
キッチンへ行って空のカップを洗い、リビングを出る時になっても、彼はまだソファから動こうとはしなかった。
(……おやすみなさい)
声を掛けづらかったので、心の中で挨拶を告げ、私は静かに妹さんの眠る部屋へと戻った。
布団に潜り込み、降り止まない雨音を聞きながら――私はまた、少しだけ泣いた。
嬉しいのか悲しいのか、それともつらいのか。自分でも理由はわからなかったけれど。
ただ、心に浮かんでくるのは、記憶に残る「彼」の姿ばかりで。
(――緋影くん。私は……)
彼の前では決して見せられなかったそれを、声を殺して零し続ける。
(あなたのことが、本当に――)
***
翌朝、昨日の大雨が嘘のように晴れ上がった。
バスは始発から時刻表通りに運行している、と彼はわざわざ電話をかけて確認してくれた。
親御さんも心配しているだろうから、早めに帰った方がいい。彼の提案に従って、私は昼前のバスに乗ることにした。
妹さんは少し残念そうにしていたけれど、また遊びに来てくださいねと笑ってくれた。
朝食の後、二人と共にバス停に向かう。
彼は――特に変わりがなかった。私も昨晩のことは聞かなかったことにしたので、何事もなかったように接した。
ただ、その「何事もなかった」のを装うのに気を取られてしまい、次はいつ会えますか、と聞けないうちにバス停へ着いてしまった。
ほどなくしてバスがやって来る。日曜の午前中という時間帯のせいか、また乗客は私一人のようだった。
(まあ、連絡先は交換してあるんだし……その気になればいつだって電話できるもんね)
そう割り切って、私は到着したバスに乗り込もうとした。
「――湊戸さん」
「はい?」
彼の呼びかけに、私は足を止めて振り返る。
「また……会って、もらえないだろうか」
その瞳は、昨晩のように不安定に揺れることはなく。
ただ真っ直ぐと、ここに在る「私」を見つめていて。
「その、今度は、僕たちがそちらに遊びに行ってもいいし――」
彼の言葉を、短く鳴らされたクラクションが遮った。
ドアを開けたままのバスが、乗らないのかと急かしている。
「の、乗ります!」
慌てて乗り込んだ私は、ステップを登りきったところで振り向いて。
「あのっ、私も会いたい――ので、連絡します!」
ドアが閉まる直前、どうにか言い終えることが出来た。
バスはすぐに発車した。私は慌てて手摺りに掴まりバランスを取りつつ、空いている席に腰を下ろす。
窓から外を確認すると、手を振る二人は随分と小さくなっていた。もう見えないだろうけれど、私も振り返す。
バス停がまったく見えなくなってしまってから、私は大きく息をつく。そこで、あることに気付いた。
(……メールアドレス、また交換しそびれちゃった)
スマフォを取り出して、彼の連絡先を呼び出す。それは前回と違い、電話番号の他に名前が登録されていた。
私はこれを、近いうちにコールすることになるのだろう。
そして、彼が鳴らしてくれることも増えるのかもしれない。
(というか、帰ったらすぐお礼の電話をしてもいいよね。一晩お世話になったんだし……)
考えれば考えるほど、心が弾んでいく。
私は窓の外を見上げた。
晴れ渡る空は、私の心と同じように澄み切っていて。
それはまるで、昨晩の嵐が澱んだものを全て洗い流してくれたかのようで――私は一度、目を閉じる。
(……さようなら)
目を開ける。
そこに広がる世界は、何も変わりはしなかったけれど。
停滞していた過去から、確かに一歩を踏み出したことを実感して、私はしっかりと前を向いた。
――この先に広がる、未来を見据えるために。
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ベストEDでは「約一年」とあるのに対し、緋影EDでは「月日が流れ」「何年か前からそういったことは一切なくなり」とあったので数年後の大学生設定で捏造しました土下座。
ご都合三昧正直すまんかった。
それと挿絵描いてくれた仲村さん本当にありがとうありがとう(ズザー)
緋影っちさん(仮)とウサギちゃんさん(仮)の名前わからんしどう書いたもんかって言ってたら「呼ばなければいいんじゃないのか」って言われたのでそうしましたマジありがとう!