meganebu

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いつか輝く月のように

2011年5月3日SCC20にて、無料配布していた誰得冬本から再掲。
桜士郎バッドエンド話。

 

 

 この学園には一人のマドンナがいる。
 マドンナ、といっても聖母ってわけじゃない。
 どこにでもいそうな普通の女の子だ。
 いや、どこにでもいる、というのは語弊がある気がしてきた。
 何せ彼女は、男ばかりの我が学園の、たった一人の女子生徒なのだから。


***


 元々が専門課程のカリキュラムが組まれているので毎日授業をこなすだけでも大変なところを、弓道部に所属しインターハイで個人優勝するわ、保健室の秩序を守るために日々弛まぬ努力が必要な保健係を立派に勤めあげるわ、さらに傍若無人の俺様生徒会長が仕切る何でもありの生徒会で書記を勤めあげるという、三足の草鞋履きをそつなくこなしている。
 それが彼女、夜久月子という女の子だ。
 もちろん、そつなく、というのは彼女の外面しか知らない人間から見たときの感想だ。
 本当はもっと努力と苦労の連続に違いない。けれど彼女がそれを顔や口に出すことは滅多にない。
 その無理がたたって倒れたのは一度や二度ではないようだし、まあとにかく彼女は呆れるぐらいの頑張り屋さんなのだ。

 ――で、俺が何でそんなことを知っているかというと。

 この三年間、ずっと彼女を見てきたからに他ならない。
 といっても別にストーカー行為を働いていたわけじゃない。
 まあそれに近いことはしてきたかもしれないが、それはあくまで新聞部としての活動の範囲内での話。
 それと、友人から頼まれたことを頑なに守ろうとしていた、それだけの話だ。
 彼女が入学してからというもの、俺の友人である星月学園生徒会会長の不知火一樹様は、ひどく彼女のことを気にしておられた。
 そりゃまあ、共学化した星月学園初の女子生徒でかつ唯一の女子であるから、気を遣っているのだろうとは思っていたけれど、にしては随分と気に掛け過ぎな気もしていた。
 あの一樹をここまで夢中にさせる女の子とは一体どんな子なのか、当時の俺はそりゃあ興味津々だったわけだ。
「なー一樹、それで、マドンナちゃんてどんな子?」
「マドンナちゃん? ああ、月子のことか」
「ほほう、さっそく呼び捨てするような仲、と」
「同じ生徒会の仲間なのに名字で呼び合うなんて他人行儀だろうが。颯斗に月子、どっちも名前で呼んでるだけだ」
「ふーん? で、どんな子?」
「どんなって……だいたい桜士郎、お前さんざん生徒会室にちょっかい出しに来といて何を今更」
 まあうん、毎日のように生徒会室に顔を出してはちょいちょい会話はさせてもらってるんだけどね。
「違う違う、俺はね、一樹個人の主観的な意見を聞きたいわけよ」
「俺か? まあ……そうだな、男だらけの中に放り込まれたわりに、よく頑張ってると思ってる」
「そんだけ?」
「他に何があるんだよ。……なあ、桜士郎。お前は月子に興味があるんだな?」
「取材対象としてなら今のところナンバーワンだね」
「だったら、ちょっと頼まれてくれないか。あいつのこと、できる範囲でいいから気を付けてやって欲しい」
「気を付ける、ねえ」
「最初のうちはそこそこピリピリしてたんだけどな。最近は慣れてきたのか、警戒心が薄いこと薄いこと」
 なるほど。一樹の言わんとするところはよくわかる。
 俺なんかこのチャームポイントのゴーグルだけで怪しまれて、意図的に距離を置かれてたしねえ。まあ、わりとすぐ慣れてくれたけど。
 でも、慣れっていうのは恐ろしいものだ。
 ついうっかり――それが当たり前のことだと思ってしまう。
 そんなことは、絶対にないのに。
「でも、マドンナちゃんの周りには立派なナイト君達がついてるでしょ」
「ああ、まあな。でも、それだって限度があるだろ。いくら幼なじみで同じクラスだからって、四六時中一緒に居るわけじゃない」
「ま、それもそうだね。つまり、俺はそのマドンナちゃんの警備が薄くなったスキマを狙い撃てと」
「そういうことだ。頼まれてくれるか」
「んー、まあ別にいいけど」
「そうか、助かる。あーそれと、しばらくの間月子への取材は禁止だ」
「えー!? 何でよ、それじゃ頼まれても引き受けられないっての。そうでもしないと俺がマドンナちゃんに近付ける理由がない」
「記事にするための取材は禁止、って意味だ。別に、雑談するくらいなら構わない」
「記事にしない取材に意味なんてある?」
「意味のない取材なんてないだろ。……記事にして、下手に騒ぎ立てられても困る。今は錫也や哉太もついてるし遠目で見てる奴らの方が大多数だ。でも、仮に新聞に載ってみろ。新聞を見ました、って話しかける口実を作るようなもんだ。今だって、ただでさえ好奇の視線に晒されてるっていうのに」
 それは一理あるかも。
 というか、正論だ。言い返せない。
「そりゃまあそうかもしれないけど……」
 ――けど、それって正しいのか。と、俺のジャーナリスト魂が雄叫びをあげる。
「俺としては、そうやって大事に閉じ込めておくよりは、ある程度の情報を開示した方がいいと思うけどね。隠されていると余計に気になるっていう心理で」
 一樹はちょっとだけばつの悪そうな顔をしてから、けれどきっぱり言い切った。
「月子は生徒会の書記になったんだ。生徒会は学園におけるイベント事のほとんどに関わっている。だから、これから嫌でも、月子は全校生徒の前へ出ることになる。……それで十分だろう」
 人前への露出が増えれば、「隠されている」という印象が払拭されるだろうと、一樹はそう言いたいらしい。
「ま、それもそうか。わかった、俺もできる範囲でだけど気を付けておいてみるよ」
「ああ。頼む」
 ……とまあそういうわけで、俺はずっと彼女を影から見守ってきた。
 影から、というのは比喩でも何でもない。
 本当に影から、表には一切顔を出すことなく、ただ見守るだけ。
 不審な輩が周囲をうろつき始めた場合は、接触する前に阻止する。
 俺で無理そうなら一樹に知らせたり、誉ちゃんに協力を依頼したりもした。
 誉ちゃんというのは弓道部の元部長で、彼女の先輩でもあるし、何より……いや、これは俺の推測にすぎないから止めておこう。
 俺という存在を彼女が認識するのは、表立って訪ねていく生徒会室や廊下ですれ違った時のみ。
 自他共に変態と認められた、ちょっとおかしな先輩。彼女にとって、俺はそれ以上でもそれ以下でもない。
 そういう存在で在るよう、俺は努めてきたつもりだ。
 ともあれ、取材を禁止された彼女の監視、という名の観察を始めてわかったことがいくつかある。
 彼女は、穏和な口調に温厚な態度、ズバリ言うなら天然。
 ただ、ぽわっとしているようで、その本質はかなりタフだ。
 無理矢理入らされた生徒会の書記に、熱血スポコンな弓道部、そして二年になってからは怠惰な保険医の雑用係。
 そんな三足の草鞋を履いていてもなお、彼女の成績に関する悪評は聞いたことがない。
 飛び抜けて良い、というわけでもないようだけれど、そもそもこの学園における学習内容は往々にしてレベルが高く、ついて行っているだけでもかなり優秀な部類に入る。
 そう、彼女は何だかんだで優秀だ。
 それでいて、そのあたりを鼻にかけたところもまったくない。
 たった一人の女子生徒、というだけでちやほやされて然るべきだし、そういう自覚を持ってしまってもおかしくはないと思うのに、彼女にはそれがない。
 それどころか、特別扱いされるのは嫌だと主張する始末。
 言ってしまえば、彼女はお世辞抜きの、本物のスーパーガールなのだ。
(面白いよねえ)
 知れば知るほど、彼女という存在の特異さに気付く。
 一樹が評したように、頑張り屋というのは、確かにその通りなのだろう。
 けれど、ただ頑張ったからといってこうもそつなくこなせるものだろうか。
 周囲の――主に彼女の幼なじみ二人の――フォローもあってのことだろうけれど、それにしたって彼女はおかしい。
 普通じゃない女の子。
 次は一体どんなことを成し遂げてくれるのか、どんな風に笑うのか、どこまで成長していくのか。
 いつの間にか、彼女を目で追うのは癖になった。
 そのうちに、目で追わなくても、彼女は目立つ――いや、自然と目に付く存在となった。少なくとも、俺の中では。
 気が付けば、彼女のことを常に気にしている自分がいた。
「お、今のいい顔」
 指で画面を切り取るようにして、架空のファインダーを覗き込む。
 ファインダーの中には、移動教室なのかクラスメイトとおぼしき男子らと談笑しつつ廊下を歩く彼女の姿。
 取材が不可なら当然撮影も禁止、隠し撮りなんてもってのほか。
「ま、こうやってベストショットを拝めるだけでもよしとしますかね」
 数多のシャッターチャンスを逃す代わりに、俺は彼女の姿を、自分の脳裏へと焼き付け続けた。

「なー、一樹」
「ん?」
 いつだったかの昼休み、屋上でのんびりと昼飯を食いながら、俺は何気なく言った。
「俺さあ、オヤジの気持ちってのがわかるようになってきたかも」
「何だよ、急に」
 苦笑する一樹にはあえて返答せず、俺は一人で話を進めた。
「オヤジってさ、結構忍耐がいるんだねえ」
 一樹はそんな俺の会話進行にも慣れたもので、空を見上げながら答えてきた。
「そうだな。オヤジってのは基本的に見守るのが仕事だからな。助けたくても手を出せない場合もある」
「確かに。一樹も苦労するね」
「まあな。父ちゃんは苦労性だ」
「会長が自ら親父を自負した瞬間……と。よし、次の特集はコレに決まりだ!」
「桜士郎。そんなに殴られたいか?」
「ぼーりょくはんたーい! 暴力に訴えるのが正義、横暴会長の裏側に迫る! って見出しにするべきか」
「颯斗に言って新聞部の予算を大幅削減してもらうのもアリだな」
「へへー親父様には敵いません、どうかお目こぼしをー」
「ったく。つーか、誰が親父様だ誰が」
「じょーだんだってのに」
 再び空を見上げ始めた一樹に倣って、自分も首を上向かせる。
 そうして何気なく、指で四角い枠を作り、雲一つ無い青空を切り取ってみた。
 さらにそこへ――脳裏にいくつも焼き付けた、彼女の姿をぼんやりと思い描く。
(……ファインダー越しなら、まだマシなんだけどねえ)
 ゴーグルのおかげで太陽光を遮られているはずなのに、目を開いているのが何となく辛い気がした。
(もうゴーグルくらいじゃ厳しくなっちゃったな。裸眼で、とか無理っぽい)
 幻視していたそれを打ち消して、俺は小さく息をつく。
(彼女を直視するには、ありていだけど……眩しすぎる、っていうか、ね)

 だから、俺はこれまでもこれからもずっと、彼女をずっと見ているだけなのだろう。
 それも影から。
 そう、彼女に気付かれないところから――彼女から直視されることのない、その位置で。


***


「白銀先輩!」
 背後からの声に振り向くと、廊下をぱたぱたと駆けてくる少女が一人。
「あれマドンナちゃん。どしたの?」
「これ」
 持っていた紙束を差し出して、息を整えながら彼女は微笑んだ。
「生徒会に届いた中に混ざってたんですけど、それって、新聞部でチェックするやつですよね?」
 受け取ったそれをめくる横で、彼女が付け足してくる。
「多分、卒業アルバム関連だから、うちの方にまとめて届いちゃったのかなって」
 それは校閲用の用紙で、確かに新聞部が受け取るべきものだ。
 まあ、自分はもう部長職は退いているのでこれといった作業はしてないんだけど、写真素材の提供って形で関わらざるを得なかったというか――自分も一応卒業生なんだけどね。
「ほんとだ。うん、そろそろこのゲラがあがってくるはずなのに来てなかったんだよね~ありがと、マドンナちゃん」
「いえ、そんな。これ、ちょっと見させてもらったんですけど、いい写真ばっかりですね」
「でしょ? でしょでしょ? もーっと褒めてくれていいんだよ?」
 調子にのっておどけてみせると、彼女はくすりと笑ってから、それに悪ノリしてくれた。
「さすがは白銀先輩です」
「くひひ、あ~りがと~」
 苦笑気味だった表情を一転させ、目をきらきらさせながら、力一杯情感が込められたその一言だけで――もう十分だった。
 腹一杯というか、胸焼けしそうなくらい。
(……焼かれるのは、胸だけじゃなさそうだけどね)
 だから、
「それじゃね、マドンナちゃん」
 そこで話を打ち切って、さっさと歩き出す。
「あ……」
 名残惜しそうな声――いや、きっと錯覚だ。そうに違いない。
 そうであってくれないと、困る。
「白銀先輩!」
 だって、追いすがるような呼びかけを無視することなんて、できるはずもないんだから。
「ん?」
 足を止めて、けれど首だけを後ろに向けて返事をする。
「あ、あの。こ……今週、いつでもいいんですけれど、夜に時間が空いてたりしませんか?」
「今週の、夜?」
 復唱して聞き返すと、こくこくと彼女は頷いた。
「はい。あの、デジカメでも星空の写真が撮れるって聞いて……それで、その、できたらそれもアルバムに載せたいなって思って」
 なるほどねえ。
 ま、確かに最近の機種は性能いいのあるし、やれないことはなかったはずだ。
「……それを、良かったら、白銀先輩にレクチャーしてもらえると有難いなって」
 うーん、確かに俺はカメラを持ち歩いてはいるけど、天体の撮影にはそれほど明るくないんだよね。お遊びで何度かやったことはあるけど。
 まあ、デジカメでお手軽に撮れるレベルでいいんだったら、ちょっと調べればすぐできるか。
 俺は返事の代わりに、一つの確認を投げた。
 そうでありませんように、と祈りながら――けれどその裏で、そうならないことを確信してもいた。
「……それってさ、皆で、だよね」
「え?」
 あーあ。
 もしかしなくてもビンゴっぽい。
「だから、一樹とか」
「あっあの……アルバムには、内緒で掲載したくて。皆忙しそうだし、だから、その……」
「忙しくなさそ~な暇人の俺に付き合え、と」
「っち、違います! あっいえ、違わない、ですけど……」
 オロオロと慌て始める彼女を宥めるように――と同時に、突き放すような呆れた口調で――言った。
「どっちなのよ」
「……あの、だ、ダメですか」
 身体を縮こませながら、上目遣いを向けてくる少女。
(本当、どこで覚えてくるんだろうね、そういうの)
 不安げに揺れる瞳を前に、俺ができたことといえばたったの一つ。
「……しょーがないなあ」
 可憐な少女の頼みを無碍にするのは、さすがの俺も心苦しいし。
「わかった、いいよ。でも今回だけだよ? 特別にね」
「あ、ありがとうございます!」
 ぱっと花が咲いたような笑みを浮かべて、律儀に頭を下げてくる彼女。
 その笑みは、いつ見ても罪作りでしかないんだなと、今更ながら再認した。


***


 さて、それから数日後。
 門限一時間前の屋上庭園は、冬真っ盛りの今は完全に真っ暗だ。
 といっても、設置された照明と、月明かりと星々の輝き――そして、彼女の笑顔を除けば、だけれど。
「それで、撮影に使うデジカメってどんなの?」
「これです。幼なじみからの借り物なんですけど」
 手渡してもらったそれをチェックしながら、この持ち主の顔を思い浮かべた。
 彼女を陰から見守っている時に、わりと高確率で目にしていた人物。
「ああ、ケンカっ早い方のナイトくんか」
「哉太のこと知ってるんですか?」
「直接の知り合いじゃないけどね。まあ、それなりに。彼、有名でしょ」
「あ……そうかも、ですね」
 一般に、彼が有名なのはそのケンカの腕っ節についてだ。彼女が微妙な表情を浮かべたのはそのあたりだろう。
 あと彼女が入学してきた年には、一樹に入れ込んでる不良が居る、ってあたりでも一部では話題だったけどね。
 留年してることも相成って、皆が抱く一樹の謎がさらに深まった事件でもあったし。
「ふんふん……これをこうして……こう、かな」
 彼女に貸し出されたデジカメは、一応天体写真を撮ることが可能なようだった。
 本体設定は既に調整されていたようで、これといってやるべきことはない。自分がしたことといえば、自前の三脚と、彼女が借りてきた天体望遠鏡(こっちは学園の機材だ)にデジカメをセットした程度だ。
「こんなもんかねえ。とりあえず、試しに一枚撮ってみようか。細かい調整はその後で」
「はい。そうですね」
 手近な場所にセッティングして、事前に調べておいた通りの手順でやってみる。
 テストで撮影してみたそれに、思った以上に星が写り込んでいたことに、彼女は随分と驚いていた。
 そうして、場所を変え角度を変え何枚もの星景写真を撮った。
 彼女の熱の入り様に感化されて、最終的には自前のカメラでの撮影も敢行した。
 まあ、そっちで撮ったものはアルバムには使うつもりはない。撮影したのは彼女でなくて俺だし。
 この「屋上庭園から見える星空の写真」というサプライズは、彼女から卒業生へ――主に、一樹へ――贈る気持ちなのだろうから、俺が撮ったものでは意味がない。
 一通り撮り終えたところで、そろそろ時間だった。ここの学園寮は結構門限に厳しい。
 まあ、授業とかで必要な観測目的だったら申請さえしておけばOKなのだけれど、今回はサプライズ企画なので、念には念を入れて申請を出さなかったのだ。
 ちなみに、申請を出さないと言ったのは彼女の方だ。
 俺としては、きっちり門限でお別れが確定するので願ったり叶ったり、といったところ。
 一緒に居られることが、嬉しくないわけはないけれど。
(でも、俺はそういう役割の人間じゃないだろうから、ね)
「それじゃ帰ろうか。門限もあるしね」
「あ……あの、白銀先輩!」
「ん?」
 片付けた機材を抱えて歩き出した俺を、その場に立ち止まったままの彼女が呼び止めた。
「もう、少しだけ……折角だから、星を見ていきませんか」
「でも、もうすぐ門限だよ」
「……少しだけで、いいんです」
 そんな切なげな目を向けないで欲しいなあ、本当。
「……しょーがないなあ」
 ため息混じりにそう言うと、彼女の顔がぱっと輝く――ああ、ダメだ。
(もう見てらんない)
 帰ろうとしていた身体の向きを反転させ、彼女と向き合う形になってから、続けた。
「――と言いたいところだけど、ダメだよ。マドンナちゃん」
 途端、彼女の微笑みが固まった。
 俺はさらに言葉を重ねる。
「これ以上はダメだ」
「え……」
 何か言われる前に、さっさと言葉を紡いで、
「だってそれってさ、俺みたいな変態と二人きりで一緒に居たいってことだよね? そんなこと言っていいの?」
 彼女の唇が動くのを待つことなく、念押しするように繰り返す。
「何されても文句言えないよ? ――だって俺変態だし」
 くひひ、と意図的に下卑た笑いを浮かべてみせる。それこそ、本当の変態みたいに。
(これでいい)
 こうしておけば、もう彼女は近付いてこない。
 そう、こんな変態になど、誰も近付いて来やしない――近付いて来なくていいのだから。
「……い、いいです、よ」
 震えた、か細い声だった。
 そうして彼女を見てみれば、声にしたことで何か吹っ切れでもしたのか、怯むことなく真っ直ぐな瞳を向けてきている。
「白銀先輩になら、いいです」
 その声が鼓膜を揺るがせ、意味を理解するまでに少しだけかかった。
(うわ~……何言っちゃってるかなあ、このお姫様は)
 だらりと嫌な汗が背中を伝い、ぐらりと己の足場が揺れるのを知覚する。
 でも、どうにか持ち直した。
「……マドンナちゃん」
 声からおどけた色を取っ払って、真剣味を纏わせた声色を作った。
「そういうこと、気軽に言うもんじゃない。いくら俺でも、……そういうの、怒っちゃうよ?」
 すると、彼女の顔がムッとなった。
「気軽にとか、そんなつもりで言ったんじゃありません。本当に、いいと思ったから言ったんです」
 まるで、自分のしていることをバカにされたのが悔しくてたまらない――そんな静かな怒りを孕んだ声が、言ってはならないことを口にしようとする。
「だって、……だって私、白銀先輩のことが――」
 ぴたりと。
 その唇に、人差し指を触れさせた。
 途切れた言葉を飲み込ませるために、一度だけ、ぐ、とその指を押し込んだ。
 柔らかな感触。それが、甘く痺れたような感覚を脳髄へ伝えてくる。
「――ダメだよ」
 意識せず、低い声になった。
 ゴーグル越しに見据えるその瞳が、一瞬だけ怯んだ。でも、本当に一瞬だけで。
 次の瞬間、彼女の両手が自分の手を掴み、勢いのまま引き剥がした。
 彼女が素早く下を向いたのは、多分自分の手が届かないようにするためだったのだろう。
「好きです!」
 甘いはずの言葉は、もはや悲鳴じみて屋上庭園に響き渡った。
「……白銀先輩のことが、好きです」
 正直言って、目眩がした。
 向けられたその想いの尊さに。
 心の底が震えて、こう叫ぶ――それは俺なんかに向けたらいけないものだ、と。
「……マドンナちゃん。それは、ダメだよ」
 ただ、その叫びとは裏腹に、出てきた声は妙に優しい感じになった。
 まるで、聞き分けのない子供を諫めるみたいに。
「どうしてですか」
「どうしても」
 だからわかって? とアイコンタクトを送ったつもりだったのだが、彼女はきっぱりとそれをはね除けた。
「理由もないのに、引き下がれません」
「……頑固だなあ。どこかの頑固オヤジの影響かな」
 と、彼女が俺を見据える瞳が強くなる。
 ああ、怒らせちゃったのかな。ここで一樹を引き合いに出したりしたから。
(ま、そうだよね。君にとって、一樹は……それだけの存在なんだから)
 そしてそれは、一樹にとっても。
「そりゃ、俺なんかのこと好きだって言ってくれるのは嬉しいけどさ」
 いや、一樹の中では、もっと。
「ダメだよ」
 だからこそ――俺には、そう告げることしかできない。
「俺にはそういう資格とかないしさ、……多分、君のことも幸せにとかできない」
 情けなくそう言うと、彼女の声にはますます怒気が孕んだ。
「そんなこと、白銀先輩が決めることじゃないです」
 泣き出しそうな目で、けれど怒りに燃えるその瞳は――真っ直ぐに、俺だけを見ていた。
「私は、私で勝手に幸せになります。それで、白銀先輩のことも幸せにしてみせます!」
「……漢前だなあ、マドンナちゃん」
 妙な方向に感心しながらも、何をそんなにムキになることがあるんだろう、とふと疑問が湧いた。
 すると、彼女の方から勝手に答えてくれた。
「私は、……白銀先輩が何を見ているのか、ずっと気になってたんです」
「俺が?」
 思わず声に出すと、彼女はこくり、と頷いた。
「皆から一歩引いて……それで、そこから、何を見ているのか」
 ぎくり――とする。
 確かに、彼女は天然で鈍感だ。けれど、時折妙に鋭い。それは、彼女に関わる人物にインタビューしたりリサーチした折に、ちらほらと聞かれた言葉だった。
 まさかそれを自分が体感する羽目になるとは。
「……マドンナちゃんが期待するようなものは、何も見てないよ」
 といっても、彼女が何を期待しているのかはよくわからないけれど。
「普通だよ。普通の世界を見てる」
「じゃあ、何でゴーグルなんですか」
 おっとそこに目を付けてくるとは、さすがはマドンナちゃん、お目が高い。
 でも、残念。
「んー、趣味?」
(君が期待しているような理由なんか、言ってあげるつもりはないからね)
 はぐらかされたと解釈したらしい彼女の顔が、悲しそうに歪んだ。
 そうして、僅かに顔を俯かせて――こう言った。
「……白銀先輩にとって、私の気持ちは迷惑でしかない、ですか」
(残酷だなあ、マドンナちゃん)
 はっきりと、それを俺に言わせるなんて。
「――うん。迷惑だね」
 なるたけ普通の調子で、これといった抑揚も付けずに、答えた。
「……そう、ですか」
 彼女はさらに下を向いてしまった。もうその顔がどんな表情をしているか、窺い知ることはできない。
(泣かせちゃったかなあ……どうしよ。一樹にバレたらまたぶっ飛ばされるね、こりゃ)
 しばらくして、彼女は顔を上げずに聞いてきた。
「一つだけ、聞かせてください。……白銀先輩は、私のこと、どう思ってるんですか」
 正直に答えてください、と。
 震える声で懇願されては、答えないわけにはいかない。
「……嫌いじゃないよ」
 嘘は言っていない。
「じゃあ、好きなんですか」
 あれま、食い付かれた。仕方ないなあ。
「……うん。そうだね。多分、俺はマドンナちゃんのことが好きなんだと思うよ」
 そう、素直な気持ちを口にした瞬間、彼女の顔ががばりと上がった。
「そうなんですか!?」
「う、うん。って、あれ。意外だった?」
「意外っていうか、……その、もしそうだったとしても、言ってくれるとは思わなかったという、か」
 うーん。何だろうこれ。素直になったのにすごい損をした気分なんだけど。
「ま、俺変態だしね」
 くひひ、といつもの笑い声をたてると、彼女は泣き笑いみたいな表情を浮かべた。
 そうして、沈痛な面持ちのまま、ぽつりと言った。
「……好きなのに、ダメなんですか」
「うん。ダメ」
 少しの沈黙の後、再び彼女は口にした――どうしてですか、と。
 これはもう、適当にしてバイバイ、ってわけにはいかなくなった気がする。
 本当に仕方がない。腹を括ろうか。
 彼女を完全に突き放すための言葉を、言いたくはないけれど、告げていこう。
「どうしてダメなのか。……それはね、マドンナちゃんが眩しいからだよ」
「え?」
「わからない?」
 まあ、そのきょとんとした瞳を見れば、答えなんか聞かなくてもわかるけど。
「……わかりません。そんな、例え話みたいなこと言われても」
「例え話じゃあないんだけどね」
 どうやら彼女には、例え話でお茶を濁した、というように捉えられたらしい。
 それは心外だ。
 だから、今だけは本当のことを言おう。
「月は太陽の光を反射して輝く。だから、お月様本人は、自分で光ってるつもりなんか毛頭ない」
 わかる? と繰り返すと、それはわかりますけど、と不服そうに返される。
「今言った「月」っていうのはマドンナちゃんのことね。まあ、マドンナちゃんは自分自身でも輝いてるけど」
「そんなこと、ありません」
「あるよ」
 脊椎反射的に否定したであろう彼女に、俺はやんわりと否定し返した。
 それに、彼女が輝いていないなんて、それに同意する者はこの学園内にはいないに等しい気がするし。
「でも、君のその輝きを受けて、周囲がもっと輝く。周囲からの輝きを受けて、さらに君が輝く――って寸法」
(だから、傍からずっと見ていた俺には、君は誰よりも輝いて見えたんだ)
 目の位置に装着したままのゴーグルに手をかけて、彼女の視線を誘導する。

 ――真実を告げる時間は、もう終わりだ。

「きっと俺はね、このゴーグルを外したら目を焼かれちゃうよ」
(嘘だ)
「目を焼かれたら、何も見えなくなる」
(そんなわけない)
「何も見えなくなったら、俺は何もできなくなる)
(その気になれば何だってできる)
「何もできなくなったら、俺は留年してまで――一樹を留年させてまで見つけた、自分のやりたいことが、できなくなる」
(そんなこと、あるわけがない。俺の夢は、そんな生半可な気持ちで、追いかけてるんじゃない)
 偽りの理由を羅列する中、俺の最後の良心が、心の中で血を吐くような叫びをあげ続ける。
 それを完全に無視し、さらなる訣別の言葉を声に乗せていく――
「ね? だから、俺は君を選ばない。俺が俺であるために、ね」
 これで完璧に打ちのめせたと思っていたのに、彼女はまだ食い下がろうとしていた。
「……そんなの」
「弱い人間のすることだって?」
 先回りして告げてやると、驚きにか彼女の顔が跳ね上がり、ぎくり、と擬音を伴ってその表情を強張らせる。
(わかりやすいね)
 そう、とてもわかりやすい――強さの塊みたいな女の子。
 男ばっかりの中で特別扱いされたくなかった彼女は、どうしたって強がらないとならなかった。
 虚勢でも何でもいい、彼女は自分の信念を貫きたいがために、ただ必死に強く在り続けた。
 彼女は知っているのだ。無意識のうちに、どうすれば強く在れるのかを。
 だから、彼女が居るのは強者の側だ。弱者の側ではありえない。
 だから、どう考えるのかなんてわかりきっている。
 ひとときでも――今でさえ――諦めた側にいる自分には。
 ずっとずっとそんな彼女を見つめ続けてきた自分には。
 彼女の考えることが、手に取るようにわかる。
(だから――崩しやすい)
「その通り。俺は弱い人間なんだ。強い人間に憧れて、そうなりたいと願ってやまない」
 叶わぬことだと知りながら、誰よりも、強く願って。
「だから、君とは釣り合わないよ」
 決定的な言葉その二を告げる。さらに彼女の顔が強張った。
(……あともう一押しってとこかな)
 鬼畜にも――って自分で言うのもアレだけど――、俺は全力で追い打ちをかけていく。
「それに、さっきマドンナちゃんさ、俺を幸せにしてくれるって言ったけど……女の子に守ってもらうっていうのも、俺としてはちょっとご遠慮したいかなー」
 といっても、単なる揚げ足取りなんだけど。
 でも、地味に効くんだなあ、これが。
「世の中にはそういうのがイイって人もいるんだろうけどね? でも俺としてはやっぱこう、ね。女の子を守ってみたいわけよ。だって、女の子から守られるだけの男なんて、格好悪いじゃない」
「……」
 もう彼女は言葉もなかった。
(これ以上やったら本気で泣かせちゃうかなあ……あーあ、一樹に怒られるのは確定か。ま、告白されてる時点で怒られるのは確実なんだけど)
 でもまあ、いいか。
 久々に一樹の鉄拳を食らうのも、きっと悪くない。痛いだろうけど。
「というわけでね、マドンナちゃん」
 俺はにっこりと笑って、
「ごめんなさい」
 勢いよく、九十度で頭を下げた。
(……何も言ってくれないのは、泣くのを我慢してるから、なのかな)
 もう彼女の声も聴けないんだろうか。
(それは寂しいなあ)
 でも、仕方がない。
(……そうだね、しょーがない)
 全部自分で決めて、選んだことだ。
(そう――夢も、何もかもを。俺は自分で選んで、決めた)
 全部、自業自得なんだ。

 俺はさんざん一樹に救ってもらってさ。
 でもって、俺は知ってるわけだ。
 一樹とマドンナちゃんの間に、何かしらの因縁があるってことを。
 まあそんな詳しくは知らないんだけど、まったく知らないってわけでもない。
 他でもない、一樹の口から聞かされたことだし。
 で、それを知った上で彼女をかっ攫うなんて、どんなツラしてできるってゆーのよ。恩を仇で返すにも程がある。

(こんな俺が今更、彼女みたいな存在に縋って生きる……、なんて、さすがに虫がよすぎるでしょ)

 そうして、ぱたぱたと走り去る足音が聞こえなくなっても、俺はずっと頭を上げられずにいた。


***


「変態」
「お?」
 屋上庭園のベンチに身を投げ出し、ぼけーっと空を見上げていた俺は、聞き慣れた呼びかけに首の位置を戻した。
「四季ちゃん。いつから居たの?」
 つらつらと物思いに耽っていたとはいえ、彼の存在にマジで気が付かなかった。
 神楽坂四季。一年後輩の、星詠み科きっての逸材だ。
 普段はとにかく寝てばっかりでピンボケなことしか言わないはずなんだが、今は違った。
 常日頃から寝惚けたようなその瞳が、今宵は射抜くような鋭さを備えている。
「……泣いてた」
 たった一言で、俺は全てを理解した。
 彼が何を思い、何をするためにここに来たのかを。
「あー……そっか。そうだね。うん」
 そうだろうなあとは思っていたけれど、改めて事実を突きつけられると、こんなにも――辛いとは。
「やっぱ泣かせちゃったかあ……」
 しんみりとなりかけたことに気付いて、俺は普段の調子で取り繕った。
「女泣かせだねえ俺も。くひひ」
 そんな俺を、彼はじっと見つめていた。
「変態」
「ん?」
「どうして」
「どうしてと言われてもねえ」
 うーん、これは説明しないといけないんだろうか。
 正直言って、そんな義務はない気がしないでもないんだけども。
「彼女の未来は決まっていない」
「ああ、四季ちゃんにも見えないんだったっけ?」
 彼の能力は星詠み科でも随一だ。基本的に他人の未来が見えている……らしい。
 ただ、その中でたった一人の例外が彼女なんだとか。
 あー、これを聞き出すまでに随分苦労したっけなあ……。
 まあおかげで、彼とはそこそこ意思疎通ができるようになったんだけどさ。
「つまり、マドンナちゃんが俺を選ぶ未来もあったかもしれない、って?」
 こくり、と彼は頷いた。
 そう言われてもねえ、というのがやはり正直な感想だった。
 彼としてはそういう認識だとしても、こちらとしては同一の認識は持てそうにないわけで。
「ま、四季ちゃんが言うならそーかもしんないけどさ。でも俺だって一応星詠み科の生徒なのよ? 自分のことぐらいわかるって」
「うそつき」
 うわ即答された。
(あのワンテンポ遅れてから会話をするはずの四季ちゃんが、即答だったよ今!)
 そんなしょうもないことに戦慄していると、彼は憮然とした表情――いやまいつもの眠そうな表情とさして変わりゃしないんだけども――で、さらに言った。
「変態はバカだ」
「そーだよ? 俺はバカな子だよー。くひひ」
 くひひ、というフレーズを口にすると、少しだけ普段のペースが取り戻せた気がした。
 ああ、そうだった。
 俺はバカだから――いつまでもこんな風に、しんみりしてるわけにはいかない。
「でもさあ、四季ちゃん」
 ただ、言われてばっかりなのも癪なので、ここは一つ、俺の考えた俺理論を披露しておくことにした。
「四季ちゃんが言うマドンナちゃんの『未来が決まってない』のってさ、つまりマドンナちゃんには無限の可能性がある、ってことだよね?」
 こくり、と再び頷くのを確認して、続ける。
「それってさ、今はそうでなくても、この後別ないい人を見つけて幸せになれる可能性がある、ってことでしょ」
「……そういうことじゃない」
 否定された。
 けれど、それだけだった。思い直せ、という意思はその声色からは感じられない。
 あれっと思って彼を見つめると、彼もやはりこちらを見つめ返してきた。
 澄んだ――底の無い瞳の色をもって。
「変態は、それでいいの」
「いいからやったんでしょーが」
「彼女は、よくないと思ってる」
「でしょーね。でも、これでいいんだよ。これでさ」
 自嘲気味に、呟く。
「それに俺は変態だからさ。変態してないと、やっていけないわけよ」
「……」
「俺なんかといたら、マドンナちゃんまでおかしな目で見られちゃうよ。そんなの、四季ちゃん許せる?」
 彼は思考するまでもなく、きっぱりと答えてきた。
「……彼女がそれでもいいと言うのなら」
「痛いとこ突いてくるなあ、もう」
 どこか彼女に似た、彼の真っ直ぐな視線から逃れるように、首の位置を上へと向ける。
「でもね、俺は嫌なんだ。俺が変態でいるのは俺の勝手なのに、それに彼女を巻き込むわけにはいかないでしょ」
 そうして俺はゆっくりと目を閉じて――噛み締めるように、忘れるなと古傷をがりっとなぞるように、思い描く。
「誰かの人生を狂わせるのなんて、本当に簡単なことだからね」
 脳裏に浮かべた誰かの姿に、打ち消せない詫びの気持ちを抱えて、俺はこれからも生きていく。
「俺はもう、そんなことしたくないんだ」
 恩を返そうにも、頑として受け取ろうとしない誰かさん。
 自身の価値をまったく理解しないまま、眩しく輝き続ける聖母様。
 前者には恩返しを続けていくとして――万一、変態である俺によって聖母の輝きが穢れでもしたら、それこそ取り返しがつかない。
 彼女を守ろうと必死だった誰かさんにも顔向けできない。
(だから俺は、それでいいんだ。……って、あれ?)
 さっきまであんなに饒舌(普段と比べて)だった相手が、何も言ってこない。
 もしかして寝ているのでは、と目を開けてみる。
 予想に反し、彼はしっかりと両目を見開き、俺を見つめていた。
「変態は弱虫」
「マドンナちゃんと同じこと言うんだねえ、四季ちゃん」
 彼が彼女に似ているのは、こんなところだ。
 言わなくていいようなことを、鋭く指摘してくる。
「そーだよ、俺は弱虫なのさ」
 認めてしまえば、随分と楽になれた。
「バカで弱虫の変態なんだよ」
 少なくとも、今感じている痛みを麻痺させるくらいには。
「……救えない」
「そだね」
 そこでとうとう彼は踵を返すと、音もなく屋上庭園を出て行った。
 残されたのは、変態という道化の俺一人だけ。
「あーあ」
 大きく伸びをするついでに、また夜空を見上げる。
 ここから、この空を見上げられるのも、もう残り少ない。
「そりゃ、俺は救えないけどさあ」
 でも、それでも。
「……マドンナちゃんは、救えたでしょ」
 俺という存在に捕らわれることなく、新たな、もっと彼女に相応しい幸せに向かって、歩み出せたはずだ。
 ふと、空に向かって手を伸ばす。
 自分に足りなかった何かを掴むように――もちろん、何を掴めたりはしないのだけれど。
「幸せになれよー」
 ふと口をついたのは、まるで娘を見送る父親の台詞だった。
(ああ、うん。ほんっと、オヤジって……辛いなあ、一樹)
「……月子」
 ただ一度だけ――彼女の名前を声に乗せてみた。
 それはとても澄んだ響きをしていて、耳障りのいい音をしていた。
(ま、もう二度と口にすることはないんだろうけど)
 ただ、それでも――自分には、残されたものが一つだけある。
 彼女が学園に入学してからずっと、自分なりに彼女を見守り続けてきた。
 もちろん、小さい頃からずっと一緒だという幼なじみ達には敵うはずもないけれど。
 でも、自分だけが見ていた彼女は、それなりにある。
 それは、この脳裏にしっかりと焼き付けられているのだから。
「――だから、俺はへーき」
 くひひ、と笑った拍子に、ゴーグルの中で水滴が跳ねた。
 仕方なくゴーグルを持ち上げると、塞き止められていたそれが頬を伝う。

「……お月様だけが見てる、ってね。俺も詩人だなあ」

(――そう、俺だけしか知らない君を、俺はいくつも知ってる。だから、誰にも届かなかったその輝きを受けて、俺もいつか輝いてみせるよ)

 だから今はただ。
 君との別れを純粋に惜しむことにしよう。


 ――いつか俺が輝ける、未来のその日のために。



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冬PC版をプレイしたら誰もがやらずにはいられなかった桜士郎ルート妄想を、いやいやきっといつかハニビ様がルート作ってくれるよそうに違いないと信じてあえて考えないようにしていたのにある日ふと魔が差してぺろっと妄想してみたところ何故かどうやってもバッドエンドにしか辿り着けず、扉絵描いてくれた仲村さんにどーにかして何とかならんだろうかと相談してみたら「いいからむしろこれ書け」とのたまわれてしまい書いてみた結果がごらんの(以下略)

 

PSP版発売前に書いてたので、実際のルートとの差異云々はそっと見逃していただければ幸い。