胡蝶の夢(文庫版)
A6(文庫サイズ)/108P/600円
緋紅小説本
実月個人誌。(表紙:仲村)
以前発行した捏造緋影アナザーエンド本を文庫サイズにして加筆修正した本です。
加筆箇所はA5サイズ換算で5P程度、濡れ場の導入部分になります(といっても8割方会話してるだけです)。
また、表紙は舩木同人ワークス様にデザインをお願いしました。
本文サンプルは続きから。
◆「胡蝶の夢」(文庫版)本文サンプル
彼の意図を悟った瞬間、全身が震えた。それはたぶん恐怖だったのだと思う。
かろうじて救えたと思った尊いものを、目の前で失うという恐怖。打ち砕かれた希望を胸に、自分ただ一人が救われるという恐怖。
恐ろしくて恐ろしくて、私は無我夢中で身体を動かした。
けれど恐怖に震える身体はうまく動かせず、階段の半ばで足をもつれさせ、情けなく転び伏した。
打ち付けた膝や腕が痛い。けれどそれよりも、彼を失いかけている私の心が、なによりの痛みを訴えてきた。
そんなのってない。
私を助けたかった、という幼い少女を犠牲にしてもなお、私は彼を失わなくてはならないのか。
私がいてくれたら良かったと言いながら、彼は私を助けようと突き放す。
違う。そうじゃない。
私の望みは、誰一人欠けることなく帰ること。
既に一人失われてしまった。これ以上失うなんて耐えられないし、許せない。
なにより、彼に二度、自身を殺させようというのか。
いやだ。私はもう誰も失いたくない――
「うああああああああ!!」
獣のような声が、私の喉から迸る。同時に、私の身体は自由を取り戻した。
湧き起こる超常的な力をもって残りの段を一気に上り切ると、勢いのまま彼に飛びつく。
バランスを崩した彼と共にどさりと踊り場に転がった。彼の取り落した銃が床を滑って壁に当たり、霧散する。
それを確認した途端、私の感情は安堵に満たされ、そして決壊した。
「緋影くんの馬鹿!!」
情動のまま、私は叫んだ。呆気にとられる彼の姿が、次第にぼやけて見えにくくなる。
「……紅百合」
子供みたいにぼろぼろと涙を零す私に、彼は困ったように言った。
「人の話を聞いていなかったのか。僕はもう戻ることは出来ない」
「そうだとしても、自殺なんて間違ってる! 私は……、私は、緋影くんに幸せになってもらいたい」
記憶を取り戻しかけた彼へ告げた言葉を、私はもう一度繰り返した。
生前から死後に至ってもなお、彼はずっとつらい思いをし続けてきたのだ。
彼が負った痛みがどれほどのものなのか、想像もつかない。だからこそ、少しでも幸せを感じてほしいと思った。
ただ、どうすれば彼が幸せになれるのか。
(それは……やっぱりわからないけど)
けれど、わからないなら探せばいい。彼の幸せを。彼が幸せになるための方法を。
(もちろん、見つかるかどうかだってわからない。……でも、なにもしないうちから諦めるのも間違ってる)
思い返す。彼やその妹から聞いた、どこまでも痛ましい悲劇を。彼らはただ互いが共に在れば良かったはずで、けれどそれは叶わなくて。
掴めなかったささやかな幸せは、理の違う世界であっても手にすることが出来なくて。
――つきりと、胸の奥が鈍く痛んだ。
何故痛むのかはわからない。なにも思い出せない。
けれどその痛みは、受け入れてしまえばひどく私に馴染んでいった。
ああ、知っている。私はこの痛みを知っているのだ。
胸の奥に、熱い想いが滾っていく。
失いたくない。許せない。取り戻したい。
その渇望が、かつての彼が欲したものと同種であるということに、私は最後まで気づくことが出来なかった。
「私は帰らない。緋影くんが幸せになれるまで、私は絶対に帰らない!」
心のままに、力強く宣言する。
それは彼の提案を却下するものであり、私の心からの願いでもあった。
言葉は強い意志の力を伴って、私に宿る。
――世界に浸透する。
「紅百合、……君は」
そこで彼は、不自然に言葉を途切れさせた。
探るように辺りへ視線をやったかと思うと、なにもないところをじっと見つめ始める。
「……緋影くん?」
数秒の間を置き、彼はようやく反応を見せた。
色の違う瞳が私を見上げてきて、その真摯な眼差しにどきりとする。
ややあって、彼は小さく嘆息した。
「……いつまで僕の上に乗っているつもりなんだ」
言われて初めて、彼を押し倒したような体勢でいたことに気づかされる。私は慌てて飛び退いた。
「ご、ごめん……!」
勢いよく下げた頭を戻してみると、緋影くんが半身を起こしたところだった。
呆れなのか苛立ちなのか、険のある表情が改めて私を見据えてくる。
「それで」
「え?」
「僕に幸せになってほしい、ね。……君は、僕がなにをしてきたのか理解してくれたと思っていたんだけれど」
突き放すような声音には、嘲りの色が含まれている。
「そんなこと――」
「君が思っているよりずっと、僕は許されないことをたくさんしてきた」
遮ってきた言葉は頑なで、かいつまんだ事情を聞いただけの私には、それを否定することなど出来はしない。
「……そうかもしれない。でも、つらい思いをしてきたのも本当だよね」
出来るのは、受け入れた事実を肯定することだけ。
そんな私から目を逸らして、彼は呟く。
「君がどう思おうと、僕にそのつもりはない」
そうして、エントランスに沈黙が落ちた。
なにをどう言えばわかってもらえるんだろう。考えを巡らせたけれどわからない。
「……緋影くんは、幸せになりたいとは思わないの?」
「僕にその資格があると思うのか?」
緋影くんの言葉は、私には言っているこう聞こえた。
その資格があるのなら、幸せになりたいと思っている――と。
「あると思う」
「あるわけないだろう」
即座に否定されたものの、私は負けじと言い返す。
「あるよ」
「どうしてそう思う」
「緋影くんや他の誰かがどう思おうとも、私は緋影くんに幸せになってほしいって思うし、それに」
本当は、そこから後を続けるべきか迷った。
けれど、彼女がこの場にいたらきっと、賛同してくれるような気がして。
「ウサギちゃんも、私と同じように思うんじゃないかな」
「……っ」
彼の顔が僅かに歪む。
――ああ、私は卑怯だ。やはりその名前を出すべきではなかった。
今の彼にその名前を出せば、頷くしかないはずで。
(でも――それでも)
私は緋影くんに幸せになってほしい。
そのためにも、まだ現世へ帰るわけにはいかなかった。
私が帰ってしまえば、彼はまた自身に向けて引き金を引くに違いない。だから私が現世へ帰るのは、緋影くんが幸せになれたのを見届けたその後だ。
その旨を伝えると、彼は疲れたように息を吐き出した。
「……だいたい、あいつらはどうするつもりなんだ」
「え?」
「君がそんな理由でここに残ると言って、賛成してもらえると思っているのか?」
「それは……」
反対されると思う。
素直にそう感じた私にダメ押しするように、彼が後を続けてくる。
「僕がこの館の主だと知れば尚更だ」
それについては反論が出来なかった。けれど、諦めるわけにはいかない。
「説得するよ」
「どうやって」
「どうにかして」
は、と彼が鼻で笑った。
「話にならないな。説得して、あいつらも一緒になって僕を幸せにしてくれるとでも?」
馬鹿馬鹿しい。そう吐き捨てる緋影くんに、私は首を横に振ってみせた。
「皆には先に帰ってもらおうと思ってるよ。山都くんを見つけた後に」
それを聞いた途端、彼の目つきが鋭くなる。
「……紅百合。それはどういうことだ」
「私は、緋影くんに幸せになってほしい。だから、そのための方法を探したい。でもそれは私の我が儘だってこともわかってる。皆まで付き合わせるわけにはいかないよ」
「君はどうするつもりなんだ」
「もちろん、ちゃんと帰るよ。緋影くんが幸せになったのを見届けたら」
私は握っていた手のひらをそっと開いてみせた。そこには、緋影くんが渡してくれた万華鏡の欠片がある。
「万華鏡は、緋影くんが壊したから動かなくなったんだよね。この最後の欠片を入れて元に戻せば、万華鏡は何度でも使えるってことじゃないのかな」
欠片を見つめて思案していた緋影くんは、やがて難しい顔で言った。
「……どうだろうな。一度壊れたものだし、次に使ったところで使用に耐えられなくなる可能性もある」
その場合は、私は現世に戻れなくなってしまうということになる。
もし、戻れなくなったとしたら。お父さんやハルカ、コロに二度と会えなくなる。
なにより、記憶を持った私は天に召されることもなく、この狭間に取り残され続けることになるのだ。
それを思うと身震いする。けれど。
(……でも、あと一度しか使えないって決まったわけじゃない。諦めたくないよ)
心の中で呟くと、ふと甦る記憶があった。
(そうだ、緋影くんも言ってた)
館の散策を始めた頃、彼から諭された言葉。
今思えば、あれは誰に向けての想いだったのだろうか。
「そうだとしても、私の気持ちは変わらない。私は、緋影くんが幸せになるのを見届けてから、現世へ帰る」
「……強情だな」
「うん。それに、緋影くんも言ってたよね」
――本当に仲間を想うなら、最後まで諦めるな。自分の命を諦めるんじゃない。
多少面食らったこともあって、印象に残っていたそれを一字一句違わずに諳んじてみせる。
彼も思い出したのか、どこか気まずそうに目を逸らした。
「それは……文脈が違うだろう」
「そうだね。でも、私が今やろうとしてるのは自己犠牲じゃなくて、自己満足だよ。私が勝手に、緋影くんに幸せになってほしいってだけなんだし」
「……まったく、君は」
再びため息をついた緋影くんの声色は、随分と穏やかなものになっていた。
「だが、あいつらにそう言ったところで、納得するとは思えないな」
「だから、説得するよ」
「無理だな」
緋影くんは間髪入れず断言した。
「そんなの、やる前から決め付けるのは良くないと思う」
「やらなくてもわかるから言ってるんだ。あいつらは君に弱いところがあるけど、こんな無謀を許すほど馬鹿じゃない」
「それでも――」
押し問答になりかけたところで、緋影くんは軽く片手を挙げ、私の発言を制した。
「……君は、あいつらを先に現世へ帰した後、目的を果たしたら自分も帰る。それは間違いないな?」
「うん」
これまでで一番大きなため息をついた緋影くんは、わかった、と頷いた。
「あいつらは僕が説得しよう」
「緋影くんが?」
「まあ、説得というよりは騙し討ちになるだろうけどね。そうでもしなきゃ、あいつらだけを先に帰すなんて不可能だ」
それで問題ないか、と彼の目が訴えてくる。
きっとそれは彼なりの譲歩であり、おそらくは一番効率のいい方法に違いなかった。
「……うん。そうだね」
私は頷くしかなかった。実際、皆を説得出来るかと言えば難しいように思えたから。
「なら、今日のところは隠れ家に戻ろう。明日、あいつらを現世へ帰す」
「明日? でもまだ、山都くんがどこにいるか……」
「山都の居場所なら見当が付いている」
「え……緋影くん、山都くんがどこにいるか知ってるの!?」
「ああ」
当然のように頷く緋影くんに、私はつい責めるような口調になってしまう。
「し、知ってたならどうして――」
「言うはずがないだろう。いつ化け物になるかもしれない相手の場所を教えてなんの得があるというんだ。……落ち着け。今のところまだ化け物になりきっていない」
「本当に?」
「ああ。多分」
「多分って……」
食い下がる私に、緋影くんは落ち着け、と繰り返した。
そうして緋影くんは、この狭間で身についた能力で相手の居場所は探知出来るが、詳細な状態までは把握出来ないのだと語った。
「山都も含めて、現世に身体がある者は送り帰すよ」
なにか含みのある言い方だな、とは思った。けれど深く考えることはしなかった。
それよりも気になることがあったからだ。
(良かった……山都くん、すぐにでも現世に帰りたがってたもんね)
入院しているという双子の弟さんのためにも、早く現世へ帰してあげなければ。
そう考えると、一人で残ることを選んだのは正解だったと思えてくる。
「……ああ、それともう一つ。あいつらを帰すまでの間、君は部屋で待機していてくれ」
「え? でも」
「騙し討ちだと言っただろう。君がいると確実に話がややこしくなるだろうし、ここは僕に任せてもらえないか」
出来ることならお別れを言いたい気持ちもあった。
でも私はすぐに帰るつもりはないし、皆は――特に山都くんを――すぐにでも帰した方がいいはずで。
「……わかった。部屋で待ってる」
それから、私たちは隠れ家へと引き返した。
話し込んでいた踊り場から階段を下りきると、緋影くんは床にあったウサギちゃんの仮面を拾い上げた。
大事そうにそれを抱える彼の隣に並び、歩き始める。
道すがら、部屋で待機する私と緋影くんが、皆に気づかれないように意思疎通できた方がいい、という話になった。
結果、ノックの回数や叩く速さなどを組み合わせて、いくつかの合図が決められた。
ドアを開けてほしい場合や、その逆に開けるなという場合など、やり方を覚えたところで隠れ家に到着した。
私は緋影くんに向き直り、持っていた最後の欠片を渡す。そして、深々と頭を下げた。
「緋影くん。皆のこと、お願いします」
「ああ」
静かに扉を開け、中へ入る。
幸い誰かが起き出しているということもなく、私たちは無言のまま、最後に目配せだけを交わし、それぞれの部屋へと戻っていった。
自室に入り、しっかりと施錠する。
緋影くんが皆を帰して戻ってくるまで、私はもうここから出ることはない。
(……どうか、皆が無事に帰れますように)
小さく祈った後、私はそっと皆に詫びた。
(皆、怒るかな……でも、私の我が儘に巻き込むわけにはいかないし。全部終わったら、私もちゃんと帰るから)
眠る準備をしていると、部屋の扉がノックされた。
規則性のある叩き方は、先ほど決めたばかりの合図に他ならない。
(今のは……開けてほしい、ってことだよね)
なにか言い忘れたことでもあるのだろうか。私はドアに近づいて静かに解錠する。
蝶番の音が響かないようそろりと扉を開けば、別れたばかりの緋影くんがそこにいた。
口の前に人差し指を一本立てているのは、喋るな、ということだろう。
私は小さく頷き、彼を部屋の中へと招き入れた。閉めた扉を施錠し直して、詰めていた息を吐き出す。
「緋影く――」
振り返ろうとした私の口に、なにか布のようなものが押し当てられた。
今まで嗅いだことのない、どこか甘く、むせるような香りが鼻孔一杯に広がる。
(え、なに……)
ぐらりとなにかが傾くのを感じた。
それは急に狭くなった視界であり、私の身体そのものだった。
けれど、頭がそれを理解する前に、意識そのものが闇の中に沈んでいく。
「ありがとう、紅百合。……さよなら」
耳元でそう囁かれたことも知らないまま、私の意識はふつりと途絶えた。
----------------
こんな感じの不穏な流れがずるずる続いていく話です。